多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

『記憶を書きかえる』5

多重人格、まとめ(1)

ハッキング『記憶を書きかえる』

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム
イアン ハッキング
早川書房
1998-04T



をべースにしつつ、全体のまとめ。 
とりあえずのweb上での追究の締めに当たって、言い残しておきたいこと。


要するに人格とは「何」か

1.人格とは、適応の為の「道具」である ?機能的側面

最初に言っておくと、これはあくまで心理学/精神医学上の、更にはそこにおいても所謂多重「人格」と通称される障害・症例が、問題となって初めて改めて焦点化された/され得る認識、用語法だということです。
だから日常日本語として「人格」という言葉が別な、恐らくはもっと包括的な意味で使われることを邪魔するものではないし、実は”専門”たる心理学などの分野においても、従来それほどはっきりした意味で使われていたわけではないんですね、僕の知る限り。『性格心理学』と呼ばれるようなジャンルもあることはありますが、現在単独で重要なジャンルというわけでもない。むしろ占い師に聞いてくれた方が、面白い話が聞けますよという。(笑)

であるから基本的にはテクニカル・タームの話として受け取ってもらって一応は構わないんですけど、ただ僕としては「多重人格」という”衝撃”を通して、日常的なレベルでも、「人格」概念の変容が、なるべくなら起きて欲しいなと、思っています。それは別に学的概念の方が「正式」だからという権威主義ではなくて、そっちの方が内容的に、使用価値が高いと思うから。言い換えると、幸せになれると思うから。(ある種の不幸を避けられると言った方がいいかな)
例えば精神分析による『無意識の”発見”』が、「意識」や「自己」についての把握を、柔軟化したように。自分の中の欲望や非合理に、より優しくなれるようにしてくれたように。・・・・その”柔軟”性そのものを不幸だと感じる人が、一定数いるのも事実だと思いますが。奴隷&地蔵志願者を救うのは、いつの時代も難しい。

まあ、「学的」というか、僕の把握ですけどね(笑)、一応言っておくと。学的背景もそれなりに押さえた上での。


前置きが長くなりましたが、思うに「人格」とは、適応の為のツール、道具、もっと言えば方便、それ以上でもそれ以下でもありません。・・・・適応、だけでは不親切だから付け加えるとすれば、外界や他者からの刺激や影響に対して、こちらが反応する、アジャストする、その為の、フィルター、あるいは一定の条件(環境や他者という)下での反応パターンの集積・総体ということです。

これと対照的な認識としては、人格が”アイデンティティ”の根幹であって、自分そのものである、自分という単一性・統一性の別名であるという、そういう認識、または用語法。一般には現在でもそうであろうし、そうであるからこそ、その人格が『多重』(その前段階として”二重”)化するという現象が、”衝撃”であり奇異であり、今もって断固として認められないという人もいるわけですね。

そこが既にして間違いだと、ハッキングは繰り返し言っていて、僕もそう思います。人格如き頼りないものが、アイデンティティの源や「自己」の別名であるものかと。だいたい安易に根拠づけすると安易に崩れて危ないので、大事なものほど留保を沢山持たせておかないと、後で酷い目に遭います(笑)。ある段階での自分の言葉の未熟が、未来の自分を脅かす。自分の言葉に自分が騙される。問題だあ問題だあ・・・・ほんとか?

話戻して最初の定義に従えば、ある人格がそうであるのは、あくまで「条件」によるわけです。
だから論理的に、その「条件」が変われば、「人格」も変わるのです。当然です。それが人格の多重性の、最も単純な実態。
勿論そのことと「精神障害」としての多重人格は、イコールではありません。現象としてはまず、これは次の2.のテーマですがそれら人格間の「記憶」の分裂・不通があるかどうかが、それが”障害”と呼ぶべきものかどうかの決定的な要素としてありますし、また普通に暮らしていて突然「多重人格」になるということもまずありません。何か特別な原因や環境は、たいてい見て取れる。

更に言うならば、通常のレベルで言えばむしろ人格を「多重」化出来ないことの方が、精神衛生的に問題であることも多くて、例えば古い言い方ですが、「会社人間」などというのはそうした状態です。”会社”という「条件」が変わっても、同じ反応パターン=『人格』でしか反応出来ず、それにより新たな環境への適応に困難を生じるという。(それ以前に上手く会社用の「人格」が作れない、ということの方が、現在の悩みとしては大きいかも知れませんが)
・・・・という言い方をしてもいいですし、たいていの場合は実際には多様な内容・傾向を抱えるその人の全体性を、概ね一つの「人格」であるとみなして、あるいは最も頻繁に使う「人格」のカスタマイズとして、何となく誤魔化しながら、一生をやり過ごすわけですね。精神科医のお世話にはならずに。(笑)

これらはある種認知や”名づけ”の問題だとも言えて、この段階でも敏感な人や意図してそう見る専門家の目からは、十分に「多重人格」だったりもするわけです。・・・・ただし記憶の分裂に代表される実害が無ければ、特にそう診断する必要はありませんが。
だから、と、繋いでいいのかな、一種の多重人格”ブーム”の後、ある時期以降のアメリカを中心とする精神医学界では、なるべく「多重」性及び「人格」の独立性を強調しない方針を取っていて、正式な診断名も『解離性同一性障害』となりました。これはニュアンスとしては、”沢山の「人格」がある”のではなく、”一つの十分に成熟した、(大きな)「人格」が形成出来ていない”という、そういう含みを持った概念です。ある意味一般人の感覚に合わせたとも言えますし、「法的」で「公の」ものとしての堅固な『個人』性を重視するアメリカらしいとも、そう思います。僕は今いち説明的過ぎて気に入らないんですけど(笑)、それはともかく。

とにかくやや中を取ったような言い方をすると、可能性や必要性は常にある人格の「多重」性が、限度を越えて辻褄・連絡が悪くなってしまった状態、あるいは個別の基本的には便宜的に存在を許されていた「人格」が、何かのきっかけで独立意識を肥大させてしまった、もしくは全体性・全能性を誤認してしまった状態、それが”病気”としての多重人格だと、そんな風な構図で見ておけばいいかと。ハンフリー/デネット/ホワイトヘッド的な”国家”という比喩を使えば、ある政府の各省大臣が、それぞれ自分が国の代表だと主張し始めた、首相の存在を忘れたか、あるいは「総理大臣」というシステムが壊れたか。
それに対して統一的システムを再建・構築するか、あるいはそれが難しいようなら集団指導体制を認めて継続可能なものに整えて行くか、治療の方針としても分かれるようですが。


語源的に言えば、つまりは古代ギリシャの”ペルソナ”(仮面劇の仮面)に近い概念に戻った感じですね。特定の内容や役割を、必要に応じて付けたり外したりする。別に”能面”でもいいですけど。今は般若ですよお、今は夜叉ですよお。
”戻った”というのは、それを語源とする英語のpersonalityには、どういう経緯か知りませんが明らかにそれ以上の内容・ニュアンス、恒久性や全体性が付加されているからで、それの訳語なのかな?知りませんが、日本語の「人格」も同様。
背景には恐らく、近代における「人間」という概念の誕生または肥大ということがあるのでしょうけど。余りにも人文化し過ぎてしまった。自分も”現象”であるという側面と、上手く付き合えなくなってしまった。

そうして生じたやや無防備に直接的自明的な、自己の単一性・統一性の幻想が、近・現代人を苦しめているところがあると、「自分探し」に狂奔させているところがあると、そしてそれを足元から丁寧に解きほぐしてくれる格好のガイドとなる可能性を、多重人格という専門的かつ通俗的な、不思議な吸引力のある現象・障害は持っていると、そう思うわけです。

次にまずは「記憶」との関連で、”障害”としての多重人格のより具体的な実態と、そこから可能な概念的把握について、その後そうした人格の「多重性」の背後に、どのような統一性恒久性を見るべきなのか、僕の考えを述べてみたいと思います。

『記憶を書きかえる』 序説(2)

アイデンティティの不動の基盤は無い。では?


人間を「つくりあげる」

私が記憶と多重人格の研究を始めたのは、ある種の人々(≒現代の”多重人格”者)がどのようにして現れたかを考えていたときのことだ。
(中略)
多重人格の話は、非常に複雑なように見えても、実は、人間を「つくりあげる」話なのである。


「現れた」(る)も「つくりあげる」も、要は同じ種類の概念。

多重人格という”病気”にかかった、のではなく、多重人格者というタイプの人間に”なった”、形成されたということ。
「複雑なように見えても」というのは、「異常・例なことのように見えても」とでも言い換えれば、よりニュアンスが伝わるか。
要は”人格””形成”である。人間形成というか。


現在、多重人格についての議論では、子供のときの記憶、つまり取り戻されるだけでなく記述し直される記憶が争点になっている。


直接的には”虐待の記憶”を”取り戻した”、元・子供たちの告発と記憶の正当性・事実性が、少なくとも一部疑惑の目にさらされていること。
しかしそれは必ずしも詐欺や意図的な虚偽ではなく、成長した子供が大人になってから抱いた観念、与えられた知識によって、自ら思い込む、実際に「記憶」が”形成”されるらしいことが分かっている。


取り戻された記憶が過去を変える。
過去は再解釈され、組織化し直され、現在の人生にうまくつながるように変えられる。


そしてそれは別に多重人格者や精神障害者特有のものではなく、広く人間の記憶一般に見られる現象である。
また”無”から”有”がねつ造されたりする極端なパターンもあるにはあるが、多くは”解釈”や”組織化”のレベルで、しかし現在を生きている当人にとっての意味・機能としては、ほとんど「違う事実」に近いような変更が、しばしば無意識に行われている。


私は、単に人間をつくりあげるということだけでなく、自分の記憶を書き直すことによって自分自身をつくりあげるということを論じなければならない。


では筆者はこれを嘆かわしい”誤り”だと考えているのかと言えばそうではなく、

 1.まずそれはほとんど人間の記憶にとって本質的で不可避の過程・作用であり、
 2.そうやって生きるのが人間というものであり、また「記憶」自体、そもそもそういうもの(事実性ではなく利用可能性)だと考える
   べきである。
 3.そしてそれは、ただ生きるのでも過去(=記憶)の結果として受動的に生きるのでもなく、あるべき自分として能動的に生きると
   いう、古来人間にとっての道徳的義務だと考えられて来た、その考え方に合致することにも繋がる。


・・・・なぜ最初の時にこの序説を飛ばしたのか分かりました。ここだけ読んでもよく分からないからです。(笑)
全体を読んだ後なので、僕は補完しながら説明出来ますが。
同じように全体を読んだ(当たり前だ)訳者北沢格さんによる”あとがき”からも、関連して抜粋しておきましょう。

著者の考えでは、過去の記憶が曖昧だというよりは、過去そのものが曖昧なのである。
現在の観点で過去を見ることは、無意味だからだ。
(中略)
(あとがきの)冒頭で触れた「自分探し」の話で言えば、自分を「探す」のではなく「つくり上げる」という意識を持つことが重要だ、というのが著者の考えではないだろうか。


ここで、(1)で述べた”アイデンティティの不動の基盤の不在”ということと、繋がるわけですね。

まず過去そのものが曖昧だとはこの場合どういうことかというと、「客観的事実」(性)が無いとは言わない。言わないけれど、どのみち”現在”を形成しているのはそうした事実性そのものではないということです。「機能」としての過去の曖昧性というか。
学者が一生懸命研究している人類や国家の「歴史」ですらもそういう傾向は強いわけですから、そうしたことのなされない、あるいはたまたま一人の精神科医が” 研究”しただけの個人の「歴史」など、甚だ当てにならないか生兵法であり、それにより不幸な間違いや争いも起こったりするわけですけど。
「現在の観点で過去を見ること」は、言うなれば事実性の問題に加わるところの”史観”の問題、それによる更なる研究や確定の困難という事態を指しているか。

というわけで「真実の」「理想の」自分を求める、それはいい。
しかしそれを過去やありものとしての基盤に”探し”ても、そんなものは見つからないよと。あるいは過去は過去でしかないよと。
むしろ過去(の記憶)は単なる”材料”の、大きくはあるけれど一部だと割り切って、あくまで意思的主体的に、あるべき自分を「つくって」いく、それが正しい道だよと、哲学者としての筆者は言うわけです。


何か過度に「道徳」的主張のようにも思えますが、要はどのみち、今この瞬間も、人は様々に複雑な要素の束として、「つくられ」ているわけです。否応なく。
またそれは繰り返しますが、確定した「過去」(の「記憶」)の、整然とした「結果」としてではなく、かなりランダムに。(だから根拠を過去にのみ求めても、失敗するかイデオロギーにしかたどり着けない)

ならばその過程を、より望ましい方へ、積極的にということですね。どうせならちゃんとやろうという。
そのことと医学的科学的な多重人格のあれこれのディテールとのより直接的な関連については、それを含めたまとめという形で、次に書きたいと思います。年内にいけるか?(笑)

『記憶を書きかえる』 序説(1)

延び延びになってましたが予告しておいた” まとめ”を、今年中にやらなければと改めて手に取ったら、実は”序説”の項をやってなかったことに気が付きました。
当時(’05.8月)は多分必要無いという判断だったのだろうと思いますが(マジ覚えてない(笑))、むしろまとめというか頭の整理には必須な感じなので、順番変ですがそそくさとやります。

これを皮切りに、トントントンと、出来れば今回初めて読んだ人でも一応の理解が出来るようなまとめに、なればなあと。


記憶への関心と記憶の科学

幼児虐待が引き起こすと言われている多重人格の治療は、失われた苦痛の記憶を思い出すという作業になる。
年老いてゆく人々がアルツハイマー病を恐れるのは、それが記憶の病とみなされているからだ。
脳の科学的研究は、生化学的な手法で心の中へ踏み込むというきわめて異常なものだが、その主たる研究対象は記憶である。

このように、ただ一つの言葉のもとに、驚くほど多様な関心が引き寄せられている。すなわち、「記憶」という言葉に。


昔から人々は記憶に強く引きつけられてきた。(中略)しかし、記憶が科学として研究され始めたのは十九世紀後半にすぎない。
特にフランスの研究者たちは病的な記憶に対象を定めており、多重人格はそうした新しい科学の一部として一八七六年に姿を現した。


二十五年前(注・1998年刊)には問題にもされなかったこの病(多重人格)は、現在では北米中に蔓延している。
(中略)
人格断片への解離は(現在の理論によると)長い期間忘れ去られていた子供時代の虐待によって引き起こされる。
このように多重人格は、それ自体は小さな問題だとしても、記憶に関するパラダイム的な概念なのである。

・・・・つまり暗に、「記憶に関するパラダイム的な」 転換が、”記憶の病”としての多重人格の、現代の北米における「蔓延」を生んでいると、言っているわけですね。


記憶と魂、科学と宗教

それまでの科学は、魂そのものの研究からは除外されて来た。(中略)
記憶の科学は魂を知識に、そして科学に置き換える方法を提供するものだ。
かくして精神の闘いは、魂そのものではなく記憶という限定された分野で展開されることになり、しかもその記憶に関して、当然持つべき知識が存在するはずだと考えられるようになったのだ。


この書き方には少し注意が必要かも知れません。
まず”限定”という言い方ですが、筆者はこの”限定”を批判しているわけではありません。単に事実・・・・”事態”と言った方がいいかな、それを描写・追認しているだけです。
ただではこの動き全体を肯定している、認めているのかというと、それもそうではありません。結局のところ、「魂を記憶に置き換え」る、この行為自体の正当性を実は認めていないのです。”置き換えられない”と言っていると、いっていいかも知れませんが。
しかしそれは、宗教や伝統的な考え方の立場に立って、「魂」の”神秘性”を支持しているというそういう意味でもなくて・・・・。次。


私は魂が、単一のものだとか、本質そのものであるとか、一個のものだとは思わないし、さらに言えば、ものだとさえ、思っていない。
魂は個人のアイデンティティの不変の核を示すものではない


順番逆ですがまず特に後半部分について、この書き方は僕はちょっと問題があると思います。
魂が「個人のアイデンティティの不変の核を示す」かという設問は実際には存在していなくて、「個人のアイデンティティの不変の核を示す」もの、それを『魂』と呼ぶ/呼んで来たわけでしょう。言わば定義というか、”名前”のことなわけで。ここをつつくのは、違うのではないかという。少なくとも特定の宗教/宗派の、特定の『魂』概念を攻撃するような意図があるわけでなければ。ずばり”キリスト教社会”においてすら、もっと緩く、『魂』という概念・言葉は、受け止められているはずです。
実際に言いたいことは前半部分であり、また以下のようなこと。


私は、魂はそれよりももっと控えめな概念であると考えている。
魂とは、個人の持つ様々な側面を奇妙な割合で混ぜたものなのである


つまり「単一のもの」でも「一個のもの」でもないということ。何が。個人が。または「個人のアイデンティティ」が。元々
本来人はそういうものであり、ここでは特にそう言ってませんが、だから「多重人格」も殊更驚くようなものではないと。(”人格”の定義は措くとして)
ここにもう一度「魂」という言葉を組み込んでみると、筆者のやったように「魂は個人のアイデンティティの不変の核を示すものではないと言うのではなく、「個人のアイデンティティの不変の核」という意味での(としての)「魂」は存在しないと言った方が、分かり易いのではないかと思います。

では個人のアイデンティティはどのように保持されているかと言えば、「様々な側面を奇妙な割合で混ぜたもの」として、存在しているわけです。
・・・・混合物がアイデンティティだと言われるといかにも不安というか、虚無的に聞こえるかも知れませんが、例えば僕はここらへんを、「関数」や「数式」というイメージ/比喩で、ある時期から把握して来ました。つまり「様々な側面」や要素が、ある(例えば)数学的法則性に従って処理される、「割合」が決まって来る自分なりのパターン、傾向、”数式”、それが『自分』の、『自分』らしさの本体であるということ。
”これ”と指せる実体・要素としての「本当の自分」はいないけれど、決してランダムでも無秩序でも、無個性でもないというわけです。
ていうか”僕”も”あなた”も、要素自体はだいたい共通しているわけです。結構ありきたり。だからそこに違いを作ろうと、一生懸命資格を取ろうとしたりする人もいるわけですけど(笑)、問題は要素ではなくて要素の処理パターンなわけですね。それとてかなりの共通性はありますが、逆にどうやっても完全には一致出来ないという逆側の悩みも人間には存在しているわけで、そこに「個性」は否も応も無く、存在するわけです。

だいぶ僕の意見が入ってしまいましたが(笑)、本題に戻って「ものだとさえ」と青字で強調した部分、それが何を意味するかというと、僕の語感だとそれは特にその前の部分で言えば「本質そのものであるとか」と親和性があると思うんですが、要するに(固定した)実体としての自分自身(の核)という把握、それを否定しているわけです。
・・・・分からないか、つまりですね、「もの」として魂が無意識にイメージされてしまっていたからこそ、「記憶」という別種の”もの”(物理・化学的過程)に、置き換えられるという隙が出来てしまったということです。魂という”もの”と、記憶という”もの”。哲学的にはある意味同カテゴリー。

ここらへんについて補完的に引用すると、こんな感じ。

魂を考えることは、あらゆる発言の源となる一つの本質、一つの霊的地点が存在することを認めるのとは違う。


要するに伝統的・宗教的な、”魂”観ですね。

まとめて言うと、筆者の言う”魂”、僕の言い換える個人のアイデンティティは、

 1.単一性を属性として持っていない。
 2.”もの”ではない。実体でも特定の要素でもない。

この二つのことが、やや癒着気味に語られているというのが、僕の読解。


一回切りますね。ではどうなってるのかというのが、次。
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