要するに人格とは「何」か
1.人格とは、適応の為の「道具」である ?機能的側面
最初に言っておくと、これはあくまで心理学/精神医学上の、更にはそこにおいても所謂多重「人格」と通称される障害・症例が、問題となって初めて改めて焦点化された/され得る認識、用語法だということです。
だから日常日本語として「人格」という言葉が別な、恐らくはもっと包括的な意味で使われることを邪魔するものではないし、実は”専門”たる心理学などの分野においても、従来それほどはっきりした意味で使われていたわけではないんですね、僕の知る限り。『性格心理学』と呼ばれるようなジャンルもあることはありますが、現在単独で重要なジャンルというわけでもない。むしろ占い師に聞いてくれた方が、面白い話が聞けますよという。(笑)
であるから基本的にはテクニカル・タームの話として受け取ってもらって一応は構わないんですけど、ただ僕としては「多重人格」という”衝撃”を通して、日常的なレベルでも、「人格」概念の変容が、なるべくなら起きて欲しいなと、思っています。それは別に学的概念の方が「正式」だからという権威主義ではなくて、そっちの方が内容的に、使用価値が高いと思うから。言い換えると、幸せになれると思うから。(ある種の不幸を避けられると言った方がいいかな)
例えば精神分析による『無意識の”発見”』が、「意識」や「自己」についての把握を、柔軟化したように。自分の中の欲望や非合理に、より優しくなれるようにしてくれたように。・・・・その”柔軟”性そのものを不幸だと感じる人が、一定数いるのも事実だと思いますが。奴隷&地蔵志願者を救うのは、いつの時代も難しい。
まあ、「学的」というか、僕の把握ですけどね(笑)、一応言っておくと。学的背景もそれなりに押さえた上での。
前置きが長くなりましたが、思うに「人格」とは、適応の為のツール、道具、もっと言えば方便、それ以上でもそれ以下でもありません。・・・・適応、だけでは不親切だから付け加えるとすれば、外界や他者からの刺激や影響に対して、こちらが反応する、アジャストする、その為の、フィルター、あるいは一定の条件(環境や他者という)下での反応パターンの集積・総体ということです。
これと対照的な認識としては、人格が”アイデンティティ”の根幹であって、自分そのものである、自分という単一性・統一性の別名であるという、そういう認識、または用語法。一般には現在でもそうであろうし、そうであるからこそ、その人格が『多重』(その前段階として”二重”)化するという現象が、”衝撃”であり奇異であり、今もって断固として認められないという人もいるわけですね。
そこが既にして間違いだと、ハッキングは繰り返し言っていて、僕もそう思います。人格如き頼りないものが、アイデンティティの源や「自己」の別名であるものかと。だいたい安易に根拠づけすると安易に崩れて危ないので、大事なものほど留保を沢山持たせておかないと、後で酷い目に遭います(笑)。ある段階での自分の言葉の未熟が、未来の自分を脅かす。自分の言葉に自分が騙される。問題だあ問題だあ・・・・ほんとか?
話戻して最初の定義に従えば、ある人格がそうであるのは、あくまで「条件」によるわけです。
だから論理的に、その「条件」が変われば、「人格」も変わるのです。当然です。それが人格の多重性の、最も単純な実態。
勿論そのことと「精神障害」としての多重人格は、イコールではありません。現象としてはまず、これは次の2.のテーマですがそれら人格間の「記憶」の分裂・不通があるかどうかが、それが”障害”と呼ぶべきものかどうかの決定的な要素としてありますし、また普通に暮らしていて突然「多重人格」になるということもまずありません。何か特別な原因や環境は、たいてい見て取れる。
更に言うならば、通常のレベルで言えばむしろ人格を「多重」化出来ないことの方が、精神衛生的に問題であることも多くて、例えば古い言い方ですが、「会社人間」などというのはそうした状態です。”会社”という「条件」が変わっても、同じ反応パターン=『人格』でしか反応出来ず、それにより新たな環境への適応に困難を生じるという。(それ以前に上手く会社用の「人格」が作れない、ということの方が、現在の悩みとしては大きいかも知れませんが)
・・・・という言い方をしてもいいですし、たいていの場合は実際には多様な内容・傾向を抱えるその人の全体性を、概ね一つの「人格」であるとみなして、あるいは最も頻繁に使う「人格」のカスタマイズとして、何となく誤魔化しながら、一生をやり過ごすわけですね。精神科医のお世話にはならずに。(笑)
これらはある種認知や”名づけ”の問題だとも言えて、この段階でも敏感な人や意図してそう見る専門家の目からは、十分に「多重人格」だったりもするわけです。・・・・ただし記憶の分裂に代表される実害が無ければ、特にそう診断する必要はありませんが。
だから、と、繋いでいいのかな、一種の多重人格”ブーム”の後、ある時期以降のアメリカを中心とする精神医学界では、なるべく「多重」性及び「人格」の独立性を強調しない方針を取っていて、正式な診断名も『解離性同一性障害』となりました。これはニュアンスとしては、”沢山の「人格」がある”のではなく、”一つの十分に成熟した、(大きな)「人格」が形成出来ていない”という、そういう含みを持った概念です。ある意味一般人の感覚に合わせたとも言えますし、「法的」で「公の」ものとしての堅固な『個人』性を重視するアメリカらしいとも、そう思います。僕は今いち説明的過ぎて気に入らないんですけど(笑)、それはともかく。
とにかくやや中を取ったような言い方をすると、可能性や必要性は常にある人格の「多重」性が、限度を越えて辻褄・連絡が悪くなってしまった状態、あるいは個別の基本的には便宜的に存在を許されていた「人格」が、何かのきっかけで独立意識を肥大させてしまった、もしくは全体性・全能性を誤認してしまった状態、それが”病気”としての多重人格だと、そんな風な構図で見ておけばいいかと。ハンフリー/デネット/ホワイトヘッド的な”国家”という比喩を使えば、ある政府の各省大臣が、それぞれ自分が国の代表だと主張し始めた、首相の存在を忘れたか、あるいは「総理大臣」というシステムが壊れたか。
それに対して統一的システムを再建・構築するか、あるいはそれが難しいようなら集団指導体制を認めて継続可能なものに整えて行くか、治療の方針としても分かれるようですが。
語源的に言えば、つまりは古代ギリシャの”ペルソナ”(仮面劇の仮面)に近い概念に戻った感じですね。特定の内容や役割を、必要に応じて付けたり外したりする。別に”能面”でもいいですけど。今は般若ですよお、今は夜叉ですよお。
”戻った”というのは、それを語源とする英語のpersonalityには、どういう経緯か知りませんが明らかにそれ以上の内容・ニュアンス、恒久性や全体性が付加されているからで、それの訳語なのかな?知りませんが、日本語の「人格」も同様。
背景には恐らく、近代における「人間」という概念の誕生または肥大ということがあるのでしょうけど。余りにも人文化し過ぎてしまった。自分も”現象”であるという側面と、上手く付き合えなくなってしまった。
そうして生じたやや無防備に直接的自明的な、自己の単一性・統一性の幻想が、近・現代人を苦しめているところがあると、「自分探し」に狂奔させているところがあると、そしてそれを足元から丁寧に解きほぐしてくれる格好のガイドとなる可能性を、多重人格という専門的かつ通俗的な、不思議な吸引力のある現象・障害は持っていると、そう思うわけです。
次にまずは「記憶」との関連で、”障害”としての多重人格のより具体的な実態と、そこから可能な概念的把握について、その後そうした人格の「多重性」の背後に、どのような統一性恒久性を見るべきなのか、僕の考えを述べてみたいと思います。