多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

『記憶を書きかえる』4

18.虚偽意識(3)

「個人」についての(西洋の)道徳


一、アリストテレスの『目的論』

(神と離れた)個人が存在する目的は、自意識を持つ完全な個人に成長することである。(決定論・運命論的な「成長」「成熟」)

二、ジョン・ロックの『唯名論』

記憶が個人のアイデンティティの基準であり、本質である。(事実性/社会性を主眼とする合理主義)
・・・・法的責任主体としての「個人」。

三、カントの『自律』(倫理学)

人間は道徳的な自己を構築することに責任がある。(自由と選択。後述)

四、記憶政治学(記憶の科学)

個人は記憶と性格によって構成される。”二”の強化版科学版。
記憶の正確性や一貫性、それに基づく性格の安定性こそが、個人の根源でありアイデンティティである。

(注)
基本的に”三”の立場に立つ筆者にとって”四”は、個人の現在や未来が、記憶、つまり偶然的な過去の経験のありようによってのみ決定されてしまうという受動性、無責任性において、不十分な考え方である。



「自律」と「自由」 ・・・・”三”について

その道徳理論を特徴づけているのが、カントであれ、ルソーによるものであれ、ミシェル・フーコーであれ、変わりはない。(中略)
彼らは、自分自身の性格、自分自身の成長、そして自分自身の道徳性に対する責任の取り方を自覚することを求めた。


・・・・「自律」

これらの哲学者は、自然界の万物と同じく、われわれ人類は、生まれつき目指そうとする、完全に定義された目的を持っているという古代ギリシアの観念を克服した。(>一、アリストテレス)
と、いうよりも、現代においては、われわれは、自分で目的を選ばねばならなくなったのだ。(中略)
われわれは、なぜその目的を選ぶかを理解しない限り、完全に道徳的な存在とはなりえないのである。


・・・・「自由」


「自律」と「自由」の観点からの、ゴダードによるバーニス・Rへの治療の批判

彼女は再構築され、ゴダード博士の住む男性支配世界、つまり娘を犯すような父親はほとんど存在せず、あまり丈夫ではない若い女性が、パートタイムの秘書として働ければ、治療は済んだとされるような世界の中に組み込まれたのである。(中略)
既に(近親姦によって)かなり弱められていた女性としての自律は、いかなる形のものであれ、事実上、抹殺されたのである。



ではどのようなセラピーが望ましいか ?現代の多重人格セラピーの問題 

(現代アメリカの多重人格セラピー/運動への)
慎重な懐疑論者たちが心配するのは、多重人格セラピーを受けて、一ダース以上の交代人格たちと懇意になり、そうした交代人格たちは幼いころに、性的虐待を含むトラウマへの対処の手段として形成されたと信じる患者たちのことなのである。


これは今日典型的な多重人格の症例・セラピーの、事実としての”否定”ではない。

幼いころの虐待の記憶らしきものが、必然的に悪いとか、歪められているというような出過ぎた意味ではない????それも真実そのものなのかもしれないから。


そうではなく、(それらの”セラピー”の結果)最終製品としてできあがるのは、念入りに加工された個人であって、われわれ人間を、個人として成立させるために必要な目的に向かって努力する個人ではないという意味である。
すなわち、自己認識を持つ個人ではなく、(多重人格をめぐる出来合いの物語に自分をはめ込むことによって)自己理解をしたつもりになって、口だけはよく回るが故に一層悪い個人なのである。


彼らが尊敬するのは、クライエントに自信を持たせ、自分の人生を生きていけるように支援する臨床家である。


過去と虐待者への被害者意識を煽るだけでなく。
ここらへんをフェミニズム的な観点で言うと、

あまりにもたくさんの多重人格セラピーが、暗黙のうちに古い女性のモデルを強固にしている(中略)
すなわち、勇気を持ち続けることができずに、弱い女性としての自分自身の物語を、過去にさかのぼって創造する受動的な女性という


自分は虐待の被害者(でかよわい女性)なのだから、無力なのは仕方ないのだ、という逆の安心感。


(結論)

以上は基本的に、セラピーの効果・妥当性という、功利主義的な観点によるものだが、

私の考えでは、彼ら(慎重な懐疑論者たち)が心の中で疑っているのは、多重人格セラピーの結果は、ある種の虚偽意識ではないかという点である。これは、深遠な道徳判断の問題である。


”虐待”を中心とする特定の病因論の枠組みに進んで飛び込むことによって、真の自己認識の機会をあらかじめ奪われてしまう。

個人というものは成長し、成熟して、自分自身を知るようになるという考え方に、虚偽意識は反している


それは人間であるとはどういうことかという問いに対してわれわれが持つ、最良の見解に反しているのである。



・・・・最後に自分の言葉でまとめて、終わりにします。

18.虚偽意識(2)

[補]を付けるとか言ってましたが、ちょっとやってみたらそれほどの必要性を感じなかったので、ともかく先に進ませてしまいます。参照リンクくらい後で付けておくか。


欺瞞記憶は常に虚偽意識をもたらすか

(ジャネのケース)

私の考えでは、ピエール・ジャネほど、体系的に欺瞞記憶を研究した人はいない。
ジャネは至高の動機からそれを行った。彼の患者たちはひどく苦しんでいた。

患者たちの症状を引き起こしたのは、誤って思い出されたトラウマだった。(中略)
ジャネはこれらの女性に催眠術をかけて、こうした出来事は起こらなかったのだと信じ込ませた。(中略)どちらの場合も、ヒステリー症状は消えた


マリーとマルゲリート(↑これらの女性)は、自分で記憶を抑制したのではなく、ジャネが抑制を行った。そのため、私の定義に従えば、彼女たちは(中略)不当忘却したのである。
われわれは、これらの女性が虚偽意識に苦しんだなどと言うべきであろうか?


つまり”至高の動機”、治療や患者の現実の苦痛を和らげるための「不当」忘却であるという、倫理的な観点と、実際に「忘却」(とそれによる治癒)が成功しているという、現実的観点と。
少なくともジャネの患者たちは、虚偽意識に”苦しんで”はいないように見える。

(ゴダードのケース)

おそらく不当忘却であったと思われる、歴史上の別の例に目を転じよう。
ゴダードの治療した十九歳の女性バーニスは、四歳の交代人格、<不愉快なポリー>を持っていた。バーニスは繰り返しゴダードに、父親との近親姦の話をした。ゴダードは彼女に、恐らくは催眠術を使って、それが空想であると信じ込ませた


バーニスは、確かに欺瞞記憶を持っていた。マルゲリートやマリーとは違って、私は、彼女もまた虚偽意識を持っていたと思う。
と言うのは、一九二一年であれば、われわれも、彼女も、また彼女の属していた社会に住む人々も、彼女の人生における単なる出来事と考える程度の出来事や行動様式を、彼女が忘れていなかったからだ。近親姦は彼女の成長、彼女の家族、彼女の少女時代に関する、きわめて重大なことだった。


19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したジャネとの年代的ギャップ(つまり近親姦の影響をより重要視する社会の変化)と、推測されるゴダードの治療のやり口の粗さから、バーニスの忘却は不完全であったということ。


虚偽意識はなぜいけないか

”功利主義的”観点

・バーニスには妹がいたので、父親による近親姦がもし事実であったなら、ゴダードの誘導した不当忘却によって、せっかくバーニスが発した”警告”が無にされた可能性がある。

・もしバーニスが1951年に生きていたら、仮に不当忘却が成功しても、巷に飛び交う近親姦≒性的幼児虐待にまつわる様々な情報や言説に刺激されて、バーニスは事実を思い出さないまでもなにがしか強い不安感に苛まれたであろう。

・そうでなくても不当に忘却させられた記憶/虚偽に基づいた意識は、いつ引っくり返るか分からない。(それを分かっていたジャネは、再度の催眠治療の為に自分は患者より長生きするつもりだと、冗談めかして言っている)

・基本的には「セラピー」というのは功利主義的/実用主義的なものであり、上記のような実害が無ければ虚偽意識そのものには反対する根拠をもたない。

道徳的観点

私はそれでは満足しない。われわれは、魂と自己認識について、別の見解を持っている。(中略)
それは完全に発達した人間とは何かということについて、われわれの心に深く根差した確信と感受性に由来する。それは西洋の道徳の伝統???バーニスも、ゴダードも、そして私自身も持つ道徳の伝統???の一部をなしている。


先取り的に結論だけ言うと・・・・

自己認識は、それ自体が価値をもつ美徳なのである。
人々が感傷的でない自己理解を得ることで、自らの本性を満たすようなやり方を、われわれは高く評価する。


これらの価値観が、虚偽意識はそれ自体が悪であると示唆するのである。



詳しくは次で。

18.虚偽意識(1)

虚偽意識と虚偽記憶

虚偽意識という言葉で私が表そうとしているのは、ごく普通のことだ。つまり自分の性格と過去について、全くの虚偽の信念を形成した人々の状態のことである。


虚偽記憶とは、虚偽意識のごく一部にすぎない。「虚偽記憶症候群」[補1]は普通、ある人の過去において、絶対に起こらなかった出来事の記憶のパターンのことをさすためである。
出来事の思い出し方が不正確だ(ほとんどの出来事の記憶はそうだが)ということではない。むしろ、その出来事らしきものが、起きていなかったということなのだ。



虚偽記憶の種類

実際のところ、その(↑)症候群は、矛盾記憶症候群と呼んだ方がふさわしい。なぜなら、その見せかけの記憶は、単に虚偽であるだけでなく、あらゆる現実と相反するからである。(中略)これは、<虚偽記憶症候群財団>[補1]が宣伝している類の「記憶」である。


単純虚偽記憶というのは、今述べた矛盾記憶の例とほぼ同じ内容で言えば、そのおじが、記憶の中で、本当の加害者である父親を隠蔽するためのものになっているというものである。このため、その記憶はあらゆる現実と矛盾するわけではないが、過去は根本的に作り直されている。


関連するもう一つの記憶の欠陥は、不当忘却とでも呼ぶべきものである。
これは人の性格または本性にとって不可欠な中心事項を、その人の過去から抑制することである。
私が述べているのは(自分による)(無意識の)抑圧ではなく、(誰かまたは何かによる)(故意の)抑制である。


”欺瞞記憶”

矛盾記憶、単純虚偽記憶、不当忘却(中略)とその他の可能性を合わせて、欺瞞記憶という見出しの下にまとめてみよう。
私がこうした複合語を次々造語しているのは、厳密に言えば、我々が関心を持つのは記憶ではなくて、見せかけの記憶や記憶の不在であるということを示すためである。


欺瞞記憶の中に、私は、見せかけの記憶や、記憶の不在、過去についての明確な事実の不在(≒虚偽記憶)を含めることにする。



虚偽意識と欺瞞記憶

記憶政治学[補2]がおおむね成功したために、われわれは自分自身を、自分の性格を、自分の魂を、過去によって形成されたものと考えるようになった。


このため、現代において、虚偽意識はしばしば欺瞞記憶を含むことになる。

虚偽意識が成立するためには、われわれが何者であるかということに対するわれわれの認識の一部として、欺瞞記憶が使われているに違いない。


・・・・どういうことかと言うと、「自分」=「自分の過去」(の蓄積)という認識が自明視されるようになった現代においては、(現在の)自分についての誤った”意識”は、誤った”記憶”によって形成されているはずだと、論理的にはなるということ。

しかしこうした認識、結び付けは、かつては必ずしも一般的ではなかった。

デルフォイの神殿に刻まれていた「汝自身を知れ!」という銘文は、記憶に言及したものではない
この言葉が要求しているのは、自分の性格を、自分の限界を、自分の必要を、自己欺瞞的な自分の性向を知れ、ということである。すなわち、われわれは自分のを知らねばならないと言っているのである。


記憶政治学が現れたことにより、ついに記憶が魂の代用品となった[補3]



・・・・総括的な内容で読解に必要な前提が多いので、次にまとめて(補)をつけます。

17.過去の不確定性(4) 「記憶」と「物語」(後)

物語と原因

記憶は物語そのものではないが、物語として表現されることにより特定の機能を持つ。

物語は原因を要求する。(中略)おとぎ話はおとぎ話的な因果関係を創造する。


因果論の鎖が緊密なものになればなるほど????すなわち、病因が特定化されればされるほど????物語はそれだけ見事なものになるのである。


多重人格は、取り戻された記憶に対して、最も利用しやすい物語の枠組みを提供するのである。


人が自分の過去の致命的な部分をうまく想起するのは、人がそれを首尾一貫した物語に形作る技術を獲得したときであるというライルの主張に、同意する。それこそまさに、多重人格の因果論的知識によって提供されるものである



まとめ:暗示と多重人格

暗示と医原性に多重人格の起源を求めるモデルが、多重人格について懐疑的な者から、次々に出される。
しかし、多重人格の擁護者たちは、自信たっぷりにそうしたモデルを否定する。


私も、そうしたモデルは、貧弱で皮相的なものだと思う。(しかし)


(「物語としての記憶」に理論的免疫のある)
精神分析と密接な関係を持つ研究者たちを別にすれば、取り戻された記憶に取り組む臨床家たちは、多重人格の兆候をあまりにも素直に受け入れてしまう。


つまり両者に問題がある。

多重人格に肯定的な臨床家による、患者への「暗示」が存在するように見えるからといって、多重人格が虚偽だor本来的に医原性だということにはならない。記憶はそもそもが物語的に編集されることによって確定・想起されるものなのであって、”多重人格”という「物語」に沿っている構造が見えるからといって、その記憶が特別に作り物なわけではない。

一方でいったん”多重人格”という物語が、ある時代ある文化の医者と患者たちによって共有されると、患者の記憶(の想起)がその物語に効率的に沿う形でなされる傾向があるのは確かである。
従って、そうした患者たちの記憶や症状が、よく知られた”多重人格”の物語に符合的であるからといって、一足飛びに診断を下すことは控えなければならない。

まとめて言うと、過去においても現在においても、何らか”多重人格”的症状・現象は実在したであろうが、今日の『多重人格』が今日のようであるのは、今日流布している”多重人格”という「物語」の影響によるところが大きい。

17.過去の不確定性(3) 「記憶」と「物語」(前)

「記憶」と「物語」

思い出すという行動にもっとも似ているのは、物語を語るという行動である。記憶を表す隠喩は、物語である。


われわれは自分の魂を、自分の人生をつくりあげることによって構成する。
すなわち、過去についての物語を組み立てることによって、われわれが記憶と呼ぶものによって、われわれは魂を構成するのである。


記憶と光景

行為とは、ある記述の下の行為であると私は主張したが、私は、人間の様態を絶えず言葉で表現することが可能かどうかに疑念を持っている


想起が得意であるというとは、提示が得意であると言うことだ・・・・・・それは物語の技術なのである・・・・・・すると、思い出すことは、信頼のおける言葉による語りという形態を取り得る。」(ギルバート・ライル)
ライルが述べているのは、われわれが思い出したり、想起したり、追想するやり方の”ひとつ”は、物語によるものだ、ということに他ならない。このことは、思い出すことと、物語ることが”同一である”ということにはつながらない
ライルは、エピソードを想起することについて書いていたが、レッシングと同様に、彼は光景についても述べている。


いわゆる”フラッシュバック”について ?”光景”的記憶

(”迫真”性)

それは、おそらくは何の誘因もないまま、不意に取り戻される光景またはエピソードのことである。
脳裏をよぎる程度のこともあれば、どっと感情が押し寄せる場合もあるだろう。


記憶が直接的物語となるとき、その記憶は細部や、調子、内容の点で、誤ったものとなる。
しかし、フラッシュバックと取り戻された感情は????それらは真正の再体験なのである。


そうした記憶は、(その記憶の真実性について)何らかの特権を与えられている。少なくとも、そのような示唆がなされるのである。


(実態)

しかし、実際、フラッシュバックは、それほど堅固なものではない
最近の記憶セラピーはフラッシュバックを支援することで、フラッシュバックを安定させる
これに対して、ジャネとゴダードは、時には催眠術の暗示の言葉を二、三、加えながら、そうしたフラッシュバックを弱めて、除去した



”物語”と光景(フラッシュバック)

情動や感情のフラッシュバックは容赦なく真実を指し示しているという観念の背後にある、まったく別の要素について主張しておきたい。記憶を物語とする観念が一般に浸透していたということが、それに関係する。


論理的誤謬は、思い出すことと物語ることを同一視することから始まると言えよう。そのことが、フラッシュバックを、他の記憶とはまったく性質が異なるものに変えてしまう。


・・・・つまり、「物語としての記憶」(記憶が物語である)という側面を意識し過ぎる、固定的に考え過ぎるから、物語的でない記憶=フラッシュバックが特別に見え、特別な真実性を持つものと感じられてしまうということ。


文法の中で記号化される、思い出すという行動について我々が持つ共通の概念は、さまざまな光景を思い出すことだという点を、言っておきたい。
多くの場合、これは物語によって提示される光景を思い出すことなのだが、やはりそれは、様々な光景やエピソードについての記憶であることに変わりはない


もし回想(含むフラッシュバック)が、光景やエピソードを思い浮かべる(そして、それらを時折、記述したり、物語として語ったりする)ことにたとえられるとすれば、その回想は、その他の思い出す行動と、本質的に異なるものではない。

17.過去の不確定性(2) 「出来事」と「記憶」

「出来事」と「記憶」

現在、ほとんどの人々は、記憶それ自体は、作動すると忠実な記録を残すビデオカメラとは違うという、ごく当たり前の考え方を受け入れている。

われわれは、経験した一連の出来事を、(中略)色々な要素を再配置し、修正して、それらを思い出す際に意味のあるものへと作り変えたり、時には、謎めいていて、矛盾すら生み出してしまうような構造しかもたないものへと作り変えるのである


活動そのものは記録されるが、<ある記述の下の行為>は記録されないのだ。


それが心象であれ、画面上のビデオ映像であれ、イメージというものは、「この二人の男は何をしているのか?」という質問に対する、十分な答えを用意するものではないのだ。


われわれが心理学的に興味を持つような思い出された過去とは、あいさつとか、取り引きの合意といったような(注・上”二人の男”)、まさに人間の行為の世界なのである。



(参考)”トラウマ”の実体 ?「意図」下の出来事と非個人的な出来事

現在、恐ろしい事故の犠牲者と時々面接するという、研究のようなものが行われている。
(中略)
トラウマの専門家はこうした出来事に強い関心を持って、犠牲者たちの記憶を(心的外傷後ストレスの症状と共に)何度も研究している。この分野の先駆者ルノア・テアは、(中略)彼女が単事象トラウマと名付けたものの犠牲者は、(例えば幼児虐待のような繰り返されたトラウマの犠牲者とは違い)何が起きたかについて明晰な記憶を保持していると、彼女は主張している。


しかし、私は、こうした事件と取り戻された記憶の間の、もう一つの相違点を指摘しておきたい。トラウマの本質的特徴は、人間の行為ではなかった。トラウマとなる出来事は、出来事そのものであり、意図や記述の下での行為は起こらないのである。


従って、わたしは、人間の行為によって引き起こされたトラウマに、個人の行動とは無関係な状況によって引き起こされたトラウマの結果を適用することに対しては、強い警告を発したい。



過去の”改訂”

新しい記述の下における古い行為は、記憶の中で再体験されるものなのかもしれない。
そして、もしこれらが純粋に新しい記述、すなわち、そのエピソード(記憶)を覚えたときには利用できなかったか、または存在しなかったような記述であるならば、ある特定の意味で以前には存在しなかった何事かが、現在、記憶の中で経験されていることになる。


私が言いたいのは、行なわれたことに対してわれわれの意見が変わるということだけではなく、ある種の論理的な意味合いにおいて、行なわれたこと自体が修正されるということなのだ。
われわれが、自らの理解と感受性を変えるにつれて、過去は、ある意味において、それが実際に行なわれたときには存在しなかった意図的な行為によって満たされていくのである。

17.過去の不確定性(1) 「行為」と「記述」

(テーマ)

ほとんど文法に近いものを哲学的に分析することは、記憶と多重人格の問題にとって手助けになるかもしれない。


私が述べたいのは、過去の人間の行為の不確定性である。
この場合、不確定なのは、われわれの行為に関する何事かであって、その行為に対するわれわれの記憶ではない。



「行為」と「記述」

意図的な行為とは、「ある記述の下」でなされる行為である。


「記述」・・・・物理的動作そのものとは別の、(行為の)描写や意味付け。例えば『殺す』という概念があるから『殺人』が出来る。そして『殺意』も持つことが出来る。


新しい記述が利用できるようになり、それが広まったとき、または、それについて発言したり、考えたりしてもかまわないような事柄になるとき、わざわざ選んで行えるような新しい物事が生まれるのである。


多重人格は、不幸な個人になるための新しい方法を供給した。


以下、実例。




「人格」の「交代」

新しい術語が、日常英語の一部になったとまではいかないにせよ、多重人格に関心を持つ人にとってなじみ深いものになった。
「交代(スイッチ)」「交代人格」「人格断片」「出てくる」「別の場所へ行く」、さらには一人称複数の「われわれ」という使い方もそうである。百年前には、”第二状態”など、もっとわずかな表現しかなかった。


(そうした)新しい記述のための語彙が、存在と行為のための新しい選択肢を供給したのである。
気分の揺れの代わりに、もっと特定性の高い行動、例えば迫害者の交代人格に交代するという行動を、個人が取れるようになった。


私は、これらの言葉が利用できるようになる前には、二重人格者は交代できなかったとか、交代人格が出てくることができなかったなどと、言っているわけではない。
メアリー・レイノルズは交代した。彼女の快活な交代人格が出てきた。(中略)
しかし、一八一六年の時点で、その快活な交代人格が、意図的に出てくることができたか、つまり、それが出てくることを選べたかについては、はっきりしない。


多重人格に関する新しい言語と概念が使われるようになるまで、これは、人格断片が、意図的な行為として取り得る選択肢ではなかった。



「幼児虐待」という概念

(増加)

「幼児虐待」という記述に含まれる行為の多様性は、過去三十年の間に過激に拡大した。これまではほとんど気付かれないまま通ってきたような、いくつかのタイプの行動が、虐待とみなされるようになった。
虐待となり得るような新しい方法が発生したのだ。(中略)露骨な虐待を行えなかった大人たちは、いまや、自分でも虐待とみなし得る行為を実行できる。


ひとたび、多くの事柄が「幼児虐待」という大きな意味論上の見出しの下にまとめられて、何らかの障壁が取り払われてしまったならば、これまでは拒絶されてきた行動に対する禁止が、やや緩和されるかもしれない。
幼児虐待の増加の一因が、宣伝にあるという可能性を否定するわけにはいかない。


(再定義)

それ(父親のある行為が「虐待」かどうか)以上に難しい問題は、今日の大人の女性の事例、つまり、自分が子供だったときにはこれらの(「幼児虐待」という)記述を持っていなかったのに、大人になってから自分の過去に注目して、現在の考え方なら、そうした記述の下に置かれるエピソードを思い出しているような事例である。
(中略)
彼女が子供のときには、彼女も、彼女の周囲の大人も、何が起きていたかについて、今日の五歳児が概念化するようには、十分に概念化できなかったのである。


(再)「行為」と「記述」

すべての意図的な行為は、ある記述の下の行為だ(中略)
もし、古い時代のことで、記述が存在しなかったり、利用できなかった場合、当時、人は、その記述の下で意図的に行為をなすことはできなかったのだ。


・・・・つまり著者は(例えば『幼児虐待』のような)現代に発達した概念を、過去の行為に遡って適用することに基本的に反対である。


過去の「多重人格」者

1855年の主婦ダフネ(とその「交代人格」エスター)

もし彼女が多重人格者だったならば、多重性についてのすべての言語は、過去にさかのぼって彼女に適用可能ということになるではないか?それは違う
例えば、私が述べた(↑”「人格」の「交代」”の項)ように、一九八〇年代であれば、エスターはダフネから最高統制権を奪いながら、ある特定の機会に出てくることを選んだだろう。しかし、これは一八五五年の「エスター」にとっては、まったくできない相談だった


・・・・意図的に「交代」出来たか。


1921年のバーニス・R(とその「交代人格」ポリー)

もしバーニスが一九九一年に、多重人格および解離の専門のクリニックで治療を受けていたならば、彼女がかなりの数の交代人格を発達させていた可能性は高いと思う。(中略)しかし、歴史上の存在であるバーニスに対して、ある種の治療の下で彼女が(たぶん)発達させていたであろう人格構造を投影することは、間違いだと私は信じる。
(中略)
バーニスがセラピーを始めた一九二一年、彼女が、二つか三つ以上の交代人格を備えた人格構造を持っていたというのは、正しくない。確かなのは一九二一年九月に、彼女は少なくとも一つの交代人格、すなわちポリーを持っていたということだけである。


・・・・「多重」人格になれたか。

哲学者の見る多重人格:現代編2

・・・・”16.心と身体”の(3)

スティーヴン・ブロード『一人称多数....多重人格と心の哲学』

根底に存在する単一の自己という観念を、デネットが心の底から否定したのに対し、ブロードは、そうした実体の必然性を固く信じていた。」


「多重人格の存在そのものが、形而上学的魂だとか、必然的に統一された自己だとか、超越的なエゴといった観念とは、矛盾するに違いない(ように見える)。」

「しかし、ブロードの議論は逆である。彼は、多重人格という現象そのものが、その多重性の下での統一を要求しているのだ、と主張する。(中略)ブロードは、超越的なエゴが存在するに違いないという結論を下す。」



「ブロードは、根底にある自己というものが存在すると考えているが、この観念を示すもっとも明白なモデルは否定する。」

「発見されるのを待っている
真の個人、つまりずっと前から存在していて、治療の中で明らかにされる、真の個人というものが存在とする考え(をブロードは否定する)

「初期のアメリカの記録者たち(中略)は、
本当の人格について、何らかの理念を持っていたようである。どの交代人格が、真のミス・ビーチャムなのか?彼女を育てよ、そして彼女が発見されたならば、それ以外のものには出て行くように命じよ

「これを踏まえてブロードは、分裂を起こして矯正を必要としているような、
本来の個人というものがあるはずだ、と論じている。」
(アト注)つまり”本当の人格”が隠れているのではなく、”本来の個人”が損なわれているのだという考え。


「真の自己ではなく、あらゆる自己の中心となる核が存在するというブロードの主張は、一人の人間が持つ複数の交代人格は、共通した基本的技能を持っているという観察から始まっている。それらは歩いたり、道路を横断したり、靴紐を結ぶことができる。それぞれの状態のときに、多大な再学習を要するようなまれな多重人格者ですら、普通の技能はほぼすべて保持している。」

「とすれば、交代人格どうしの持つ共通の技術に説明をつけ、共在意識を持った交代人格が相互に影響し合うことを可能にする、
基質のようなものが存在するに違いない。」

哲学者の見る多重人格:現代編1

・・・・”16.心と身体”の(2) 


ダニエル・デネット『説明された意識』

解明される意識
ダニエル・C. デネット
青土社
1997-12-01


「この二人(精神科医ニコラス・ハンフリーと哲学者デネット)は、臨床家とクライエントの多重社会を調査し、その共同研究は、大きな論議を読んだ『自ら語る』という論文へと発展した。
彼らは、個々のシロアリがバラバラに何かをしているときであっても、シロアリのコロニーは、全体としては単一の目的下に行動をしているように見える様子を観察した。その要点は、集合的な作用のように見えるものは、指導をする統制者を
(必ずしも)必要としないということである。」

「ハンフリーとデネットはこの事実を使って、個人とは何かということについての、部分的なモデルを示している....個人とは、多くの構成部分からなる存在だ、と。」



”大統領””国家”という比喩

デネット/ハンフリー
「彼らは類似例を提供する、すなわち、他ならぬ合衆国である。われわれはアメリカの特徴を語るとき、そのがむしゃらさ、ヴェトナムの記憶、永遠の若さという幻想を口にする。しかし、こうした特質を統合する、支配的実体は存在しない。『
<ミスターアメリカ的自己>というようなものは存在しないが、地上のすべての国には、事実上<国家の首長>が存在する』という。」

「アメリカ大統領は国家の
価値観を代表し、それを説き、そして『他の国家との交渉という事態になった場合は、スポークスマン』になるものと期待されている。」


ホワイトヘッド
「興味深い偶然の一致ではあるが、ホワイトヘッドも、似たような比喩を使っている。個人となるためには統一的な支配が必要だという点に注目した彼は、『これら他の現実を統括している、
別の知性(米国市民すべての上にいるアンクル・サムのようなもの)を要求してはならないのは明らかだ』と書いた。」



結論

「それにもかかわらず、他人との関係の持ち方を含め、さまざまな点で決定的に重要な構成部分を一つだけ持つことも可能である。大統領との類似の話からすれば、それは、構成部分の集合体の観点の主席代表のようなものである。」


(アト注)
要するに
赤字で示されている部分が対外的に統一性を要求されるいわゆる「自分/人格」であり、ひいては通常われわれが統一的な感覚を持って「自分」と感じている部分。
一方で
青字で示されている部分はわれわれが時に幻想する「本当の自分」、あるいはある種の神秘思想が策定する「超越的な自己」であるか。

「こうした類推から、多重人格についての新しい考え方が示唆される。構成部分は、交互に代表になるわけだが、構成部分が作り上げている組織全体にある、様々な考えをめぐって、代表または、大統領としてうまく機能する部分もあれば、うまく機能しない部分もあるという考え方だ。」


(アト注)
つまりうまく機能”しない”部分が代表の座に就くと、あるいは代表の座をめぐっての内部の「政治」に混乱が起きると、『障害』としての多重人格が発生するということ。

哲学者の見る多重人格:古典編

・・・・”16.心と身体”の(1)

ウィリアム・ジェイムズ『心理学原論』

「彼女を催眠トランスへと入り込ませることによって、彼女の押え込まれた感受性と記憶を取り戻す時....言い換えれば、”解離”(多重化)し、断絶された状況から感受性と記憶を救い出し、他方の感受性と記憶をつなぎあわせるとき」に、彼女は違う個人になると、ジェイムズは言う。

(アト注)
分かり難いがつまり、『つなぎあわせる』前の解離/多重化した”個人”もそれはそれで立派な”個人”だということを、この心理学の始祖的権威である哲学者も認めているという話。


「ただし、ここで言う『個人』には、何ら哲学的な重みがあるわけではない。違う個人とは言っても、これは、あいつは酒を二、三杯飲むと、別人になってしまうという程度の意味だ。」

「彼は、交代的人格を『現在の段階では回答の出せない問題』へと繋がる現象として記録した。ジェイムズは交代的人格からは、いかなる哲学的推論をも導き出さなかったのである。」



ホワイトヘッド『過程と実在』

「ホワイトヘッドの見方によると、われわれが実体として普通に考えているそれぞれの事物が、社会である。(例えば)電子は、電子の契機の社会である。(中略)この(”多重性”という)論法でいくと、いかなる有機体も社会になる。」

(アト注)
つまりこの世に存在している全てのものは、それぞれがそれぞれのレベルで独立したシステムとして(多重に)存在している。


「しかし、人間は特別である。『より高度な動物の場合には、中心的な方向が存在することにより、動物の身体それぞれが、生きている人格、または生きている複数の人格を含むことが示唆される。われわれ自身の自意識とは、それらの人格を直接に知ることである。』」

(アト注)
人間を筆頭とする高度な動物は、例えば”人格”のような本来個別的並列的な諸システムを一定の方向に階層化したり統制したりして存在し、それら全体を意識しようとする働きを有している。


「(承前)『そうした統一的支配に限界があることは、人格の解離、連続的な交代を起こす多重人格、更には強迫をともなう多重によって明示されている。』」

「ホワイトヘッドの観点からすると、多重人格はごく簡単に発生する。(中略)『
”説明しなければならないのは、人格の解離ではなく、統一的支配である”』」

(アト注)
後段部分はまず頭に置いておかなくてはならない大テーゼ。言い換えると解離が不思議なのではなくて、統一が不思議/不自然/不可能なのである。


ここまでが前提となる古典的(古くて間違っているという意味ではない)認識。

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