アイデンティティの不動の基盤は無い。では?


人間を「つくりあげる」

私が記憶と多重人格の研究を始めたのは、ある種の人々(≒現代の”多重人格”者)がどのようにして現れたかを考えていたときのことだ。
(中略)
多重人格の話は、非常に複雑なように見えても、実は、人間を「つくりあげる」話なのである。


「現れた」(る)も「つくりあげる」も、要は同じ種類の概念。

多重人格という”病気”にかかった、のではなく、多重人格者というタイプの人間に”なった”、形成されたということ。
「複雑なように見えても」というのは、「異常・例なことのように見えても」とでも言い換えれば、よりニュアンスが伝わるか。
要は”人格””形成”である。人間形成というか。


現在、多重人格についての議論では、子供のときの記憶、つまり取り戻されるだけでなく記述し直される記憶が争点になっている。


直接的には”虐待の記憶”を”取り戻した”、元・子供たちの告発と記憶の正当性・事実性が、少なくとも一部疑惑の目にさらされていること。
しかしそれは必ずしも詐欺や意図的な虚偽ではなく、成長した子供が大人になってから抱いた観念、与えられた知識によって、自ら思い込む、実際に「記憶」が”形成”されるらしいことが分かっている。


取り戻された記憶が過去を変える。
過去は再解釈され、組織化し直され、現在の人生にうまくつながるように変えられる。


そしてそれは別に多重人格者や精神障害者特有のものではなく、広く人間の記憶一般に見られる現象である。
また”無”から”有”がねつ造されたりする極端なパターンもあるにはあるが、多くは”解釈”や”組織化”のレベルで、しかし現在を生きている当人にとっての意味・機能としては、ほとんど「違う事実」に近いような変更が、しばしば無意識に行われている。


私は、単に人間をつくりあげるということだけでなく、自分の記憶を書き直すことによって自分自身をつくりあげるということを論じなければならない。


では筆者はこれを嘆かわしい”誤り”だと考えているのかと言えばそうではなく、

 1.まずそれはほとんど人間の記憶にとって本質的で不可避の過程・作用であり、
 2.そうやって生きるのが人間というものであり、また「記憶」自体、そもそもそういうもの(事実性ではなく利用可能性)だと考える
   べきである。
 3.そしてそれは、ただ生きるのでも過去(=記憶)の結果として受動的に生きるのでもなく、あるべき自分として能動的に生きると
   いう、古来人間にとっての道徳的義務だと考えられて来た、その考え方に合致することにも繋がる。


・・・・なぜ最初の時にこの序説を飛ばしたのか分かりました。ここだけ読んでもよく分からないからです。(笑)
全体を読んだ後なので、僕は補完しながら説明出来ますが。
同じように全体を読んだ(当たり前だ)訳者北沢格さんによる”あとがき”からも、関連して抜粋しておきましょう。

著者の考えでは、過去の記憶が曖昧だというよりは、過去そのものが曖昧なのである。
現在の観点で過去を見ることは、無意味だからだ。
(中略)
(あとがきの)冒頭で触れた「自分探し」の話で言えば、自分を「探す」のではなく「つくり上げる」という意識を持つことが重要だ、というのが著者の考えではないだろうか。


ここで、(1)で述べた”アイデンティティの不動の基盤の不在”ということと、繋がるわけですね。

まず過去そのものが曖昧だとはこの場合どういうことかというと、「客観的事実」(性)が無いとは言わない。言わないけれど、どのみち”現在”を形成しているのはそうした事実性そのものではないということです。「機能」としての過去の曖昧性というか。
学者が一生懸命研究している人類や国家の「歴史」ですらもそういう傾向は強いわけですから、そうしたことのなされない、あるいはたまたま一人の精神科医が” 研究”しただけの個人の「歴史」など、甚だ当てにならないか生兵法であり、それにより不幸な間違いや争いも起こったりするわけですけど。
「現在の観点で過去を見ること」は、言うなれば事実性の問題に加わるところの”史観”の問題、それによる更なる研究や確定の困難という事態を指しているか。

というわけで「真実の」「理想の」自分を求める、それはいい。
しかしそれを過去やありものとしての基盤に”探し”ても、そんなものは見つからないよと。あるいは過去は過去でしかないよと。
むしろ過去(の記憶)は単なる”材料”の、大きくはあるけれど一部だと割り切って、あくまで意思的主体的に、あるべき自分を「つくって」いく、それが正しい道だよと、哲学者としての筆者は言うわけです。


何か過度に「道徳」的主張のようにも思えますが、要はどのみち、今この瞬間も、人は様々に複雑な要素の束として、「つくられ」ているわけです。否応なく。
またそれは繰り返しますが、確定した「過去」(の「記憶」)の、整然とした「結果」としてではなく、かなりランダムに。(だから根拠を過去にのみ求めても、失敗するかイデオロギーにしかたどり着けない)

ならばその過程を、より望ましい方へ、積極的にということですね。どうせならちゃんとやろうという。
そのことと医学的科学的な多重人格のあれこれのディテールとのより直接的な関連については、それを含めたまとめという形で、次に書きたいと思います。年内にいけるか?(笑)