延び延びになってましたが予告しておいた” まとめ”を、今年中にやらなければと改めて手に取ったら、実は”序説”の項をやってなかったことに気が付きました。
当時(’05.8月)は多分必要無いという判断だったのだろうと思いますが(マジ覚えてない(笑))、むしろまとめというか頭の整理には必須な感じなので、順番変ですがそそくさとやります。

これを皮切りに、トントントンと、出来れば今回初めて読んだ人でも一応の理解が出来るようなまとめに、なればなあと。


記憶への関心と記憶の科学

幼児虐待が引き起こすと言われている多重人格の治療は、失われた苦痛の記憶を思い出すという作業になる。
年老いてゆく人々がアルツハイマー病を恐れるのは、それが記憶の病とみなされているからだ。
脳の科学的研究は、生化学的な手法で心の中へ踏み込むというきわめて異常なものだが、その主たる研究対象は記憶である。

このように、ただ一つの言葉のもとに、驚くほど多様な関心が引き寄せられている。すなわち、「記憶」という言葉に。


昔から人々は記憶に強く引きつけられてきた。(中略)しかし、記憶が科学として研究され始めたのは十九世紀後半にすぎない。
特にフランスの研究者たちは病的な記憶に対象を定めており、多重人格はそうした新しい科学の一部として一八七六年に姿を現した。


二十五年前(注・1998年刊)には問題にもされなかったこの病(多重人格)は、現在では北米中に蔓延している。
(中略)
人格断片への解離は(現在の理論によると)長い期間忘れ去られていた子供時代の虐待によって引き起こされる。
このように多重人格は、それ自体は小さな問題だとしても、記憶に関するパラダイム的な概念なのである。

・・・・つまり暗に、「記憶に関するパラダイム的な」 転換が、”記憶の病”としての多重人格の、現代の北米における「蔓延」を生んでいると、言っているわけですね。


記憶と魂、科学と宗教

それまでの科学は、魂そのものの研究からは除外されて来た。(中略)
記憶の科学は魂を知識に、そして科学に置き換える方法を提供するものだ。
かくして精神の闘いは、魂そのものではなく記憶という限定された分野で展開されることになり、しかもその記憶に関して、当然持つべき知識が存在するはずだと考えられるようになったのだ。


この書き方には少し注意が必要かも知れません。
まず”限定”という言い方ですが、筆者はこの”限定”を批判しているわけではありません。単に事実・・・・”事態”と言った方がいいかな、それを描写・追認しているだけです。
ただではこの動き全体を肯定している、認めているのかというと、それもそうではありません。結局のところ、「魂を記憶に置き換え」る、この行為自体の正当性を実は認めていないのです。”置き換えられない”と言っていると、いっていいかも知れませんが。
しかしそれは、宗教や伝統的な考え方の立場に立って、「魂」の”神秘性”を支持しているというそういう意味でもなくて・・・・。次。


私は魂が、単一のものだとか、本質そのものであるとか、一個のものだとは思わないし、さらに言えば、ものだとさえ、思っていない。
魂は個人のアイデンティティの不変の核を示すものではない


順番逆ですがまず特に後半部分について、この書き方は僕はちょっと問題があると思います。
魂が「個人のアイデンティティの不変の核を示す」かという設問は実際には存在していなくて、「個人のアイデンティティの不変の核を示す」もの、それを『魂』と呼ぶ/呼んで来たわけでしょう。言わば定義というか、”名前”のことなわけで。ここをつつくのは、違うのではないかという。少なくとも特定の宗教/宗派の、特定の『魂』概念を攻撃するような意図があるわけでなければ。ずばり”キリスト教社会”においてすら、もっと緩く、『魂』という概念・言葉は、受け止められているはずです。
実際に言いたいことは前半部分であり、また以下のようなこと。


私は、魂はそれよりももっと控えめな概念であると考えている。
魂とは、個人の持つ様々な側面を奇妙な割合で混ぜたものなのである


つまり「単一のもの」でも「一個のもの」でもないということ。何が。個人が。または「個人のアイデンティティ」が。元々
本来人はそういうものであり、ここでは特にそう言ってませんが、だから「多重人格」も殊更驚くようなものではないと。(”人格”の定義は措くとして)
ここにもう一度「魂」という言葉を組み込んでみると、筆者のやったように「魂は個人のアイデンティティの不変の核を示すものではないと言うのではなく、「個人のアイデンティティの不変の核」という意味での(としての)「魂」は存在しないと言った方が、分かり易いのではないかと思います。

では個人のアイデンティティはどのように保持されているかと言えば、「様々な側面を奇妙な割合で混ぜたもの」として、存在しているわけです。
・・・・混合物がアイデンティティだと言われるといかにも不安というか、虚無的に聞こえるかも知れませんが、例えば僕はここらへんを、「関数」や「数式」というイメージ/比喩で、ある時期から把握して来ました。つまり「様々な側面」や要素が、ある(例えば)数学的法則性に従って処理される、「割合」が決まって来る自分なりのパターン、傾向、”数式”、それが『自分』の、『自分』らしさの本体であるということ。
”これ”と指せる実体・要素としての「本当の自分」はいないけれど、決してランダムでも無秩序でも、無個性でもないというわけです。
ていうか”僕”も”あなた”も、要素自体はだいたい共通しているわけです。結構ありきたり。だからそこに違いを作ろうと、一生懸命資格を取ろうとしたりする人もいるわけですけど(笑)、問題は要素ではなくて要素の処理パターンなわけですね。それとてかなりの共通性はありますが、逆にどうやっても完全には一致出来ないという逆側の悩みも人間には存在しているわけで、そこに「個性」は否も応も無く、存在するわけです。

だいぶ僕の意見が入ってしまいましたが(笑)、本題に戻って「ものだとさえ」と青字で強調した部分、それが何を意味するかというと、僕の語感だとそれは特にその前の部分で言えば「本質そのものであるとか」と親和性があると思うんですが、要するに(固定した)実体としての自分自身(の核)という把握、それを否定しているわけです。
・・・・分からないか、つまりですね、「もの」として魂が無意識にイメージされてしまっていたからこそ、「記憶」という別種の”もの”(物理・化学的過程)に、置き換えられるという隙が出来てしまったということです。魂という”もの”と、記憶という”もの”。哲学的にはある意味同カテゴリー。

ここらへんについて補完的に引用すると、こんな感じ。

魂を考えることは、あらゆる発言の源となる一つの本質、一つの霊的地点が存在することを認めるのとは違う。


要するに伝統的・宗教的な、”魂”観ですね。

まとめて言うと、筆者の言う”魂”、僕の言い換える個人のアイデンティティは、

 1.単一性を属性として持っていない。
 2.”もの”ではない。実体でも特定の要素でもない。

この二つのことが、やや癒着気味に語られているというのが、僕の読解。


一回切りますね。ではどうなってるのかというのが、次。