物語と原因

記憶は物語そのものではないが、物語として表現されることにより特定の機能を持つ。

物語は原因を要求する。(中略)おとぎ話はおとぎ話的な因果関係を創造する。


因果論の鎖が緊密なものになればなるほど????すなわち、病因が特定化されればされるほど????物語はそれだけ見事なものになるのである。


多重人格は、取り戻された記憶に対して、最も利用しやすい物語の枠組みを提供するのである。


人が自分の過去の致命的な部分をうまく想起するのは、人がそれを首尾一貫した物語に形作る技術を獲得したときであるというライルの主張に、同意する。それこそまさに、多重人格の因果論的知識によって提供されるものである



まとめ:暗示と多重人格

暗示と医原性に多重人格の起源を求めるモデルが、多重人格について懐疑的な者から、次々に出される。
しかし、多重人格の擁護者たちは、自信たっぷりにそうしたモデルを否定する。


私も、そうしたモデルは、貧弱で皮相的なものだと思う。(しかし)


(「物語としての記憶」に理論的免疫のある)
精神分析と密接な関係を持つ研究者たちを別にすれば、取り戻された記憶に取り組む臨床家たちは、多重人格の兆候をあまりにも素直に受け入れてしまう。


つまり両者に問題がある。

多重人格に肯定的な臨床家による、患者への「暗示」が存在するように見えるからといって、多重人格が虚偽だor本来的に医原性だということにはならない。記憶はそもそもが物語的に編集されることによって確定・想起されるものなのであって、”多重人格”という「物語」に沿っている構造が見えるからといって、その記憶が特別に作り物なわけではない。

一方でいったん”多重人格”という物語が、ある時代ある文化の医者と患者たちによって共有されると、患者の記憶(の想起)がその物語に効率的に沿う形でなされる傾向があるのは確かである。
従って、そうした患者たちの記憶や症状が、よく知られた”多重人格”の物語に符合的であるからといって、一足飛びに診断を下すことは控えなければならない。

まとめて言うと、過去においても現在においても、何らか”多重人格”的症状・現象は実在したであろうが、今日の『多重人格』が今日のようであるのは、今日流布している”多重人格”という「物語」の影響によるところが大きい。