「記憶」と「物語」

思い出すという行動にもっとも似ているのは、物語を語るという行動である。記憶を表す隠喩は、物語である。


われわれは自分の魂を、自分の人生をつくりあげることによって構成する。
すなわち、過去についての物語を組み立てることによって、われわれが記憶と呼ぶものによって、われわれは魂を構成するのである。


記憶と光景

行為とは、ある記述の下の行為であると私は主張したが、私は、人間の様態を絶えず言葉で表現することが可能かどうかに疑念を持っている


想起が得意であるというとは、提示が得意であると言うことだ・・・・・・それは物語の技術なのである・・・・・・すると、思い出すことは、信頼のおける言葉による語りという形態を取り得る。」(ギルバート・ライル)
ライルが述べているのは、われわれが思い出したり、想起したり、追想するやり方の”ひとつ”は、物語によるものだ、ということに他ならない。このことは、思い出すことと、物語ることが”同一である”ということにはつながらない
ライルは、エピソードを想起することについて書いていたが、レッシングと同様に、彼は光景についても述べている。


いわゆる”フラッシュバック”について ?”光景”的記憶

(”迫真”性)

それは、おそらくは何の誘因もないまま、不意に取り戻される光景またはエピソードのことである。
脳裏をよぎる程度のこともあれば、どっと感情が押し寄せる場合もあるだろう。


記憶が直接的物語となるとき、その記憶は細部や、調子、内容の点で、誤ったものとなる。
しかし、フラッシュバックと取り戻された感情は????それらは真正の再体験なのである。


そうした記憶は、(その記憶の真実性について)何らかの特権を与えられている。少なくとも、そのような示唆がなされるのである。


(実態)

しかし、実際、フラッシュバックは、それほど堅固なものではない
最近の記憶セラピーはフラッシュバックを支援することで、フラッシュバックを安定させる
これに対して、ジャネとゴダードは、時には催眠術の暗示の言葉を二、三、加えながら、そうしたフラッシュバックを弱めて、除去した



”物語”と光景(フラッシュバック)

情動や感情のフラッシュバックは容赦なく真実を指し示しているという観念の背後にある、まったく別の要素について主張しておきたい。記憶を物語とする観念が一般に浸透していたということが、それに関係する。


論理的誤謬は、思い出すことと物語ることを同一視することから始まると言えよう。そのことが、フラッシュバックを、他の記憶とはまったく性質が異なるものに変えてしまう。


・・・・つまり、「物語としての記憶」(記憶が物語である)という側面を意識し過ぎる、固定的に考え過ぎるから、物語的でない記憶=フラッシュバックが特別に見え、特別な真実性を持つものと感じられてしまうということ。


文法の中で記号化される、思い出すという行動について我々が持つ共通の概念は、さまざまな光景を思い出すことだという点を、言っておきたい。
多くの場合、これは物語によって提示される光景を思い出すことなのだが、やはりそれは、様々な光景やエピソードについての記憶であることに変わりはない


もし回想(含むフラッシュバック)が、光景やエピソードを思い浮かべる(そして、それらを時折、記述したり、物語として語ったりする)ことにたとえられるとすれば、その回想は、その他の思い出す行動と、本質的に異なるものではない。