(抜粋4)より

人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。

これは面白い。「人格」が「交代」するというよりも、その時々その人の中で優位に立っている/活性化している諸要素(思考、気分、欲望、感覚など)を、その都度<私>と名付けて一体化するというそういうイメージですね。(なおこの”一体化”についてはグルジェフは『自己同一化』として別に重要な理論として説いてますが、煩雑になるので今回は割愛。)

これに対応するのが(抜粋2)の

全体は物理的には物(つまりカラダ)として、抽象的には概念としてのみ存在するという単純な理由のために、決して自己を表現することはない。

の部分。統一した/一貫したワタシは、概念としてのみ、機能としてのみ実在し、物理的構造的には実在しない。または表現されない。

・・・・何やらデカルトの”コギト”やらフッサール/現象学の”超越論的主観性”やら、その他諸々哲学的議論の迷路に入り込みそうな箇所ですが、それについて少なくともそういう脈絡ではグルジェフはそれ以上説いていないようなのでストップ。
むしろ問題はここらへんの関係が凡人と覚者で違うのか、それとも共通の構造なのか、内部的統一性を獲得すると変わるのか、そこらへんが重要であり興味深いところですが。

ともかくここでは通常の心理/精神医学的「多重人格」論との描写、論法の違いに留意すべきだと思います。


(抜粋6)
・・・・は、あらゆる理論的立場やグルジェフのような思想への懐疑を越えて、いち生活者として誰もが心にチクリと突き刺さる箇所だと思います。(笑)

なぜ人々が決意はよくするのにそれを実行することはほとんどないか

うるせえな。分かってるよ。”人類の悲劇”。ごもっとも。朝令暮改。短気は損気。女心と秋の空。男の下半身は別人格。
心当たりがあり過ぎるだけに非常に魅力的な説明に感じてしまいますが、どうでしょう。(笑)


キリがないのでこんなところで。
後はおのおの自分で考えるなり、グルを見つけて師事するなり好きにして下さい。
次からいよいよ「人格と魂」の話グルジェフ版。