藤家寛子さんはこうしたドナ・ウィリアムスが「仮面の人物」と呼ぶようなタイプの表層的な人格とは別に、もっとあからさまな別人格も出現させています。 
空想と現実の狭間での生活に堪えられなくなった私は、空想の世界の方に逃れることにしたのです。

”彼女”の存在を初めて感じたのは、自分本来の性質を閉じ込め始めた頃です。”彼女”の性格が完全に出来あがったのは、小学校四年生でした。

そういう時、私は古都子になったの。ここでは古くさい名前だけど、性格は全くリベラルで、とても女の子とは思えない考え方をする子だったわ。彼女は何でも現実的で、理想なんて始めから抱かないの。どんな時も、最悪を予期しながらベストを尽くす。しかも頑固で、やりての営業マンみたいだったわ。
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もう一人の私で生活することは、正直なところ本当に楽なことでした。(中略)勇敢で完璧主義者のために周りとの衝突が絶えませんでしたが、”彼女”は決して私を支配していたわけではありませんでした。むしろ私を守っていてくれたといえるでしょう。

しかし、自分で作り上げた人格とはいえ、私と”彼女”は全くの別人です。私という殻の中で度々双方の意見は対立しました。(中略)もしもお互いが個々の人間ならば、一生会いたくないと思うほど性格は違いました。

そして、いつの日からか、メインが逆転したの。中学生になった頃だと思う。とてもよく頑張っているはずのところをあまりよく覚えていないから。「私」が覚えているのは、古都子が頑張ってくれたおかげで弱った体調だけ。だから、人生の思いでの大半が、トイレかうぐいす色の洗面器なの。
・・・・多重ではなくて二重人格ですね。本来、または表の自分の影になっている要素の人格化。