特に日本人だからという理論化はなされていないが、とりあえず服部雄一が実際に扱った日本人患者たちに現れた”ISH”人格の特徴を見て行く。


女性患者AさんのISH「僚」と「友梨」

「俺の名はリョウ。『僚』と書く。友人という意味だ。ただし俺は交代人格ではない。俺は五人を導き、行く手を照らすものだ・・・・・五人の背を押す風のようなものだ。ヘルパーでもあり、中継地でもある。(中略)俺は五人全員の一部でもあり、すべてでもある。だからすべてが分かる。俺は呼べばいつでも現れ、アドバイスする。」

これは「僚」がAさん以下5つの交代人格たちに向けて書いた手紙である。
”ISH”の特徴が端的に要約して表現されているが、特に注目すべきだと思うのはその名前の由来である。友人だから「僚」、あくまで役割に特化した命名で、個人としての自意識は極端に稀薄である。実はもう一人のISH、女性人格の「友梨」というのも”事を「有利」に運ぶから”というこちらもISHとしての役割を表現しただけの名前で、ここらへんは徹底している(駄洒落とか言わないように)。

言ってみれば表意文字である漢字/日本語ならではの命名法で、表音文字であるアルファベット/英語を使うアメリカ人患者のISHには出来ない芸当(笑)だが(それに限らず割合日本の交代人格たちはあだ名や季節などの発生時の状況からそのまま適当に命名して済ましていることが多いように思う。個人意識の違い?)、とにかく自ら言っているように単なる交代人格の一人ではなく、自分自身が独立した個人として生きる気はさらさら無いという意志が込められている。実際「友梨」の方は治療の過程で、「もう自分の役割は終わった」と統合するまでもなく勝手に消えて行ってしまったということだ。

第二のISHに十五歳の少女人格「友梨」がいる。(中略)行動力のない僚を補佐する役目をもつ彼女は「牧羊犬」と自称する。僚と友梨は羊飼いと牧羊犬の関係にある。
Aさんによると、友梨は牧羊犬のように機動力があり、人格たちが逸脱した行動を取るのを監視し、守る役目をもつ。他の人格の記憶をほぼすべてトレースでき、意識喪失をともなわずに活動できる。
僚も友梨もまことに模範的な(?)ISH、別の言い方をすればアリソンが元々描写したタイプのISHに近く、最初にアリソン、次にこれという順番で読んで行った僕はてっきりISHとはそういうものだと思ってしまったので、尚更その後の汎用化されたISH概念に違和感を覚えたわけである。

それはともかく(名前の件を除けば)アメリカ人患者と日本人患者のISHに基本的な違いは無いようだ。服部雄一がこの本で挙げている3例の中でこうしたISH人格が現れたのは1例のみだが、アメリカの統計でも出現率はばらつきが見られるようなので、取り立てて特異なことではない。
またアリソンのISHの宗教的・超個人的な性格を、僕はアリソン自身のパーソナリティの反映ではないかと仮に想定してみたが、服部雄一にもそうしたISHが現れるということは必ずしもそういうことは言えないのかもしれない。(ただし後に述べるように服部雄一はアリソン同様にエクソシズム的な治療も行ったりしているので、ある意味での親近性はあるのかもしれない。)


最後に雑感だが、上の手紙の中の『俺は交代人格ではない』という表現は多少不自然というか過度に説明的な印象を受ける。恐らくAさん自身がなにがしか本などで多重人格について予備知識を得ていて、その語彙を「僚」人格が使ったのだと思う。僚のパーソナリティ傾向そのものにそうした予備知識(それこそアリソン理論の影響)が反映している可能性も考えておくべきかもしれない。
そもそも多重人格というトピックス自体、今日の日本人にとっては後追い、輸入概念という面が強いので、往々にして日本人患者の交代人格たちは変に耳年増というか理論武装しているという臭いを感じることもなくはない。