”抜粋6(1)”でギャッ!と放り出してしまった人も多いと思う(笑)。いかにも宗教的なヴィジョンである。
ただそのこと自体、増してやその「真偽」について僕ごときが何か述べるつもりは毛頭ない。ここで考察したいのはあくまで精神医学上の概念としてのISH(Inner Self Helper)の、提唱者ラルフ・アリソンとその後である。
僕の見た限り、上は本職の精神科医から下は2ちゃんの解離性同一性障害関係のスレッドまで、また多重人格/解離性同一性障害に対してその治療者がどのような立場を取ろうとも、少なくともそういう障害の実在を認めている(認めていない人もまだまだいる)人ならばあまねくこの概念に親しみ、共通言語として使用しているようだ。ただその意味内容には一定のばらつきがあり、特に開祖ラルフ・アリソンの意図を忠実に解釈しようとすると少なからず首を傾げたくなるような使い方も多く目に付く。
簡単に言うと今日ISHという概念は、多重人格者の内部に存在する多くは知的で理解力があり、治療者の助けとなるような人格一般に比較的緩い意味で使われているようだ。場合によっては単に知的で人格群のリーダー的な人格、あるいは時に自殺や自傷行為に走ったりもする、苦悩するオリジナルやその他の人格に対して保護的に振る舞う人格もそう呼ばれたりする。
なるほど確かにそうした人格は内部に存在し(Inner)、患者自身(Self)を助ける人格(Helper)であるわけだから、逐語的には間違いではないのかも知れない。くだんの若い精神科医のようにラルフ・アリソン個人への特段の敬意も無いまま、それでも何らかそうした存在、概念の有効性が広く認められて話が通じるという状況は、逆にある意味ひどく提唱者冥利に尽きるとも言える。ただそれでも僕としては今一度、この非常にインスピレーション豊富な概念の本義を問い直したい衝動に駆られる部分がある。
先に結論的に、僕の読解によるアリソン版ISHの特徴、もしくは本来の意味をまとめてみるとそれは大きく以下の2つの点にあるように思う。
1.それらは「全知」の存在である。
2.それらは完全に非個人的、非感情的存在である。
1は別に森羅万象神の如く知るということではなくて、その患者の生誕(時に受胎)から人格分裂も含む発達の全プロセスを、伝聞や調査によるのではなく直接的に知っているということである。
例えば有名なビリー・ミリガンの24の人格の一つで、担当医師にISHであると名指しされていた「アーサー」は、いかにして人格間の記憶の欠落を埋めているのかと聞かれて「(他の人格の記憶を元にした)演繹法です」と答えている。後にビリーには<教師>といういかにもそれ風な人格が現れて自らの直接的な記憶によってアーサーにも知り得なかった人生遍歴の実際を示してくれるのだが、とにかくここでのミリガンの担当医師の用法はアリソン流のそれには厳密には当てはまらない。
2はアリソンが繰り返し「単なる交代人格の一つではなく、独立した存在である」と強調していることだが、僕流に言い換えると彼らは積極的個性や個人的欲望を持たず、自ら固有の人格として現実世界で生きようとしたり多重人格につきものの人格間の主導権争いや政治に関与したりはしないということである。
再びアーサーを例に採ると、彼は確かに基本的に常にビリーの人格グループ全体の調和や幸福を図り、自ら定めたルールは厳格に適用しようとする公平無私に近い人格だが、実はそれは「気取り屋で仕切り屋のイギリス人」アーサーの個性であり、好みでもあるのだ。だから時に彼は実害というよりは好き嫌いである人格の行為を裁いたり、人格全体が気に添わない状況に置かれると拗ねて引きこもったりもする。
2に関して更に重要かもしれないのが、前述のイアン・ハッキングの伝える「ISHは駆け引きをする」という、アリソン以外のセラピストには一般的らしい経験である。つまり確かにセラピーに大いに有用な協力者的人格は広く見られるが、それらは多くの場合自身のエゴでもってセラピストと向き合い、戦略的に情報を提示してセラピストを操ろうとし、時には人格全体というよりは自分個人の身の上への配慮に務めたりもする。決してアリソンが描写するような守護天使的人格ばかりではないらしいのだ。
(つづく)