承前。  


高機能自閉症者ドナ・ウィリアムズのコミュニケーション


自閉症だったわたしへ〈2〉 (新潮文庫)
ドナ ウィリアムズ
新潮社
2001-03T



ドナさんについては前にまとめて紹介してあるので、詳しくはそちらを参照。 
ごくごく簡単に言うと、比較的「外向的」で「活動的」なタイプの自閉症の人で、それゆえ自閉症の人の「内面」「内界」で何が起きているかどう感じながら生きているのかについて、非常に貴重な証言を我々”健常者”にもたらしてくれた結構有名な人です。 

さて紹介した上の本やその前作を読むと、自閉症の人がいかに健常者と異なる形で周囲の環境や他者の存在・行為を認識し、そのギャップに恐怖し適応に苦しみながら暮らしているかがビビッドに分かるわけですが、少なくともドナさんの場合は、基本的にはそれを自分の側の落ち度・・・・とまでは行かないでも、あくまで自分が変わっているのであって、合わせなくてはいけない立場であり、どうやって合わせるか、どこまで合わせられるかという、そういう関心やトーンをメインに、これらの本は書かれています。 
それは一つには自閉症に対する研究・理解がまだまだ不十分であり、かつ高機能自閉症者の場合は逆に「高機能」であるがゆえに、しばしば病気・障害とすら認識してもらえず単に性格や行動に問題があってそれは直すべきものであるという、やや一方的に処罰的な視線で見られることが、少なくともドナさんの生まれ育った時代(1963年生まれ)には多かったという、そういうことも関係はしているだろうと思います。何より本人も、自らの障害についてよく知るまでは、そう思っていたでしょうし。 

ところがそうしたやや孤立した、卑下に近い&rdquo;謙虚&rdquo;な状態で暮らしていた&それを綴っていたドナさんのトーンが、何人かの「同朋」・・・・同様の障害を抱えて苦闘しながら生きている仲間に出会った時に、変化を見せます。別に覚醒するとか開き直るとか、啓蒙運動の旗手になるとかそういう意思的なことではなくて、もっと自然に、さりげなく。・・・・まあ、ドナさんが変わったというよりも、読んでいる僕の感じ方が変わる<んですけどね、より正確には。 

どういうことかというと、こちら正常な&rdquo;世界からの目線で、ある意味無意識に不可避的に差別的な優位な視線でドナさんたちを見ていたものが、逆に置いてきぼりにされるんです、される気になるというか。ドナさんたちのコミュニケーションと、それが形作る「世界」の自立・自律性に。・・・・なんか順番おかしいな。 
つまりですね(笑)、自閉症は現在の生物学的医学的状況からは、基本的には「障害」ではあるわけです。現実に生存を脅かすような著しい生活上の困難を伴いますし、彼ら自身の中でもそうですし、こちらからは尚更、彼らの反応や行動や見かけは、異常だったり理解不能だったり、支離滅裂だったりもする。だから彼らが孤立したままであったら、それはある種狂気と同様にも映らなくもないわけですが、しかしそうした彼らが「出会」った時、その認識が変わる。優劣ではなく&rdquo;違い&rdquo;、相対性のカテゴリーに、問題が移動するんですね。 

簡単に言うと、彼らどうしでは話が通じるわけです、コミュニケート出来るわけです。感じ方や反応が、理解出来る、あたかも言葉の通じない異国で出会った、同国人のように。決して無秩序ではない、狂気でも破綻でもない、違いだと、そのことに彼らは気付くわけです。 

わたしたちは、互いに似ていた。彼といると、自分も「普通だ」と感じることが出来た。
わたしたちは互いに何千キロも離れて住んでいるのに、「わたしたちの世界」の概念や戦略や経験は、まったく同じ解釈にまとまっていた。一緒にいると、わたしたち三人は、まるで絶滅しかけているひとつの種族のような気がした。

「普通」であること。つまり他にもメンバーがいる可能性がある、固有の秩序性・規則性(概念や戦略や経験)を元にしたカテゴリーの一部であること。その安心感。 
その「普通」にはいくつもの種類があり得て、それぞれが「種族」であるということ。そのヴィジョン。 

ジムとわたしは、まったく同じシステムを使っているようだった。(中略) 
ジムの目を見つめ、ジムにも自分の目を見つめられると、いきなり殴られたようなショックを感じた。多分、普段私は世の中の人々のシステムと、世の中の人々のいう「普通であること」の中でもがいているから、人々が毎日互いに与え合っているインパクトは、感じる余裕がないのだろう。だがジムに対しては、即座に感じるのだ。
前提として同じ「システム」が存在していること、それによって初めて成立するコミュニケーションと、それの与える「インパクト」。 
言うなれば日常的には、コミュニケーションと言った時に、力押しにその成果=インパクト(多くは「感情」のことだが)の濃度ばかりが注目されるが、それはあくまで結果であって本当はその前に、前提として問われなければいけない(システムという)問題が存在するのだというそういうことですが。 
相手を冷たいとか異常だとか断ずる前に。「議論」という特殊なコミュニケーションの場合は、それは枠組みや文脈の共有という問題になりますか。「システム」さえ整えば、「インパクト」(成果)は放っといても生まれる。別に強いなくても問い詰めなくても。 


ちなみにこうして晴れて「普通」であることを分かち合って喜んでいる彼(女)らに対して、僕が一番置いてきぼり感(笑)を感じたのは、こういう箇所。 
それからわたしは小石をひとつ拾うと、それで彼のまわりに円を描いた。今あなたはガラスの壁の向こうにいるのよ。わたしは声を出さずに言った。(中略) 
それから、もうひとまわり大きい石をいくつか拾った。「これは、明かり」わたしは大声で言うと、ひとつひとつ、彼のいる円のまわりに投げた。「あなたは闇の中にいるの」わたしは叫ぶ。「そしてあなたには、できるだけたくさん明かりが要るの」。
彼イアンという、ドナが後に会った、まだ自覚の不十分な高機能自閉症者がパニックに陥って機能停止しかかっている時に、それを助けようとドナが奮闘する場面ですが。 
これの何が僕に置いてきぼり感を味あわせたかというと、自分の障害に「システム」的背景や秩序が存在することを同朋たちとの経験によって理解して自信を持ったドナが、今度はそれを糧に先行者として後続のイアンを手助けしようとする、指導しようとするその様子が、立派になったなあと子供の成長を喜ぶと同時に寂しくも思う親の気持ちのようなものを僕の中に呼び起こす(笑)と同時に、もうそちらのシステムの問題がそちらのシステムの問題として動き出していること、独自の体系性を持ち始めている感じに、最早健常者/異なるシステムで生きている人間の出番でないこと、お呼びでないことを、何か非情に突きつけられているような、そんな感覚を覚えるからなんですね。 

こういうのは多分、医者やカウンセラーや教師や、ある種の障害と取り組んでいる人たちは時に感じることだろうと思いますが。 
「システム」的問題によって孤立したり弱い立場にいる人たちに、最初は勿論、理解や同情や保護的な態度は、役に立ったり必須だったりするでしょう。しかし「違い」は「違い」なので、どうしても立ち入れない領域というものはある。 
このように「障害者」(異種族)どうしが独自のシステムで関わり合い始めると特にそうですし、同じ健常者と障害者の関わりの中でも、分かったと思う次の瞬間には、分からないわけですね。違いを突き付けられる。時には明確な、意思表示として。オマエハ、チガウ。 

ここでも善意や努力の限界というものが、示されるわけですけど。 

前回書いた『CBSドキュメント』のサヴァンの天才音楽少年の「音楽性」の問題についても、健常者の教師が無邪気に(善意で)なんか分かったようなことを言ってますけど、結局のところ、では当の同じサヴァンの人(子)たちは、彼の音楽をどう聴いているのかどう聴こえているのか、そこのところを問わないと研究の方向としては全く駄目駄目だと思います。 
番組にも正にもう一人の天才サヴァンミュージシャン(女の子)が出ていて、それなのに一切そういう話が無かったので、何やってんだと思ってしまったわけですが。 


『ハルモニア』自体は、違いを厳しく厳しく描いて、かつ最終的な一致や普遍性の可能性、それはどちらのシステムが「正常」かではなく、より宇宙的に根底的なハルモニアの次元の示唆という形で、一応ストーリー的には完結しています。 
まああんまりそうした「結論」に向けて直線的に集約して行く、そういう話だと理解されるとマズいんですけどね。むしろ最後の部分は、おまけのファンタジーみたいなニュアンス、ご褒美というか。そんなものが無くても、2人の(直接的にはほとんど健常者の凡才教師のですが)努力とその結果の通じあいは、十分に感動的で説得的なんですよね。 

まだ描けてる感覚が無いので、もう一つ、もっと日常的な次元に引き下ろした形で、このことについて書いてみようかなと。 
いつ終わるんだろう。行き当たりばったり。(笑)