多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

2009年03月

コミュニケーションとその前提(2)

承前。  


高機能自閉症者ドナ・ウィリアムズのコミュニケーション


自閉症だったわたしへ〈2〉 (新潮文庫)
ドナ ウィリアムズ
新潮社
2001-03T



ドナさんについては前にまとめて紹介してあるので、詳しくはそちらを参照。 
ごくごく簡単に言うと、比較的「外向的」で「活動的」なタイプの自閉症の人で、それゆえ自閉症の人の「内面」「内界」で何が起きているかどう感じながら生きているのかについて、非常に貴重な証言を我々”健常者”にもたらしてくれた結構有名な人です。 

さて紹介した上の本やその前作を読むと、自閉症の人がいかに健常者と異なる形で周囲の環境や他者の存在・行為を認識し、そのギャップに恐怖し適応に苦しみながら暮らしているかがビビッドに分かるわけですが、少なくともドナさんの場合は、基本的にはそれを自分の側の落ち度・・・・とまでは行かないでも、あくまで自分が変わっているのであって、合わせなくてはいけない立場であり、どうやって合わせるか、どこまで合わせられるかという、そういう関心やトーンをメインに、これらの本は書かれています。 
それは一つには自閉症に対する研究・理解がまだまだ不十分であり、かつ高機能自閉症者の場合は逆に「高機能」であるがゆえに、しばしば病気・障害とすら認識してもらえず単に性格や行動に問題があってそれは直すべきものであるという、やや一方的に処罰的な視線で見られることが、少なくともドナさんの生まれ育った時代(1963年生まれ)には多かったという、そういうことも関係はしているだろうと思います。何より本人も、自らの障害についてよく知るまでは、そう思っていたでしょうし。 

ところがそうしたやや孤立した、卑下に近い&rdquo;謙虚&rdquo;な状態で暮らしていた&それを綴っていたドナさんのトーンが、何人かの「同朋」・・・・同様の障害を抱えて苦闘しながら生きている仲間に出会った時に、変化を見せます。別に覚醒するとか開き直るとか、啓蒙運動の旗手になるとかそういう意思的なことではなくて、もっと自然に、さりげなく。・・・・まあ、ドナさんが変わったというよりも、読んでいる僕の感じ方が変わる<んですけどね、より正確には。 

どういうことかというと、こちら正常な&rdquo;世界からの目線で、ある意味無意識に不可避的に差別的な優位な視線でドナさんたちを見ていたものが、逆に置いてきぼりにされるんです、される気になるというか。ドナさんたちのコミュニケーションと、それが形作る「世界」の自立・自律性に。・・・・なんか順番おかしいな。 
つまりですね(笑)、自閉症は現在の生物学的医学的状況からは、基本的には「障害」ではあるわけです。現実に生存を脅かすような著しい生活上の困難を伴いますし、彼ら自身の中でもそうですし、こちらからは尚更、彼らの反応や行動や見かけは、異常だったり理解不能だったり、支離滅裂だったりもする。だから彼らが孤立したままであったら、それはある種狂気と同様にも映らなくもないわけですが、しかしそうした彼らが「出会」った時、その認識が変わる。優劣ではなく&rdquo;違い&rdquo;、相対性のカテゴリーに、問題が移動するんですね。 

簡単に言うと、彼らどうしでは話が通じるわけです、コミュニケート出来るわけです。感じ方や反応が、理解出来る、あたかも言葉の通じない異国で出会った、同国人のように。決して無秩序ではない、狂気でも破綻でもない、違いだと、そのことに彼らは気付くわけです。 

わたしたちは、互いに似ていた。彼といると、自分も「普通だ」と感じることが出来た。
わたしたちは互いに何千キロも離れて住んでいるのに、「わたしたちの世界」の概念や戦略や経験は、まったく同じ解釈にまとまっていた。一緒にいると、わたしたち三人は、まるで絶滅しかけているひとつの種族のような気がした。

「普通」であること。つまり他にもメンバーがいる可能性がある、固有の秩序性・規則性(概念や戦略や経験)を元にしたカテゴリーの一部であること。その安心感。 
その「普通」にはいくつもの種類があり得て、それぞれが「種族」であるということ。そのヴィジョン。 

ジムとわたしは、まったく同じシステムを使っているようだった。(中略) 
ジムの目を見つめ、ジムにも自分の目を見つめられると、いきなり殴られたようなショックを感じた。多分、普段私は世の中の人々のシステムと、世の中の人々のいう「普通であること」の中でもがいているから、人々が毎日互いに与え合っているインパクトは、感じる余裕がないのだろう。だがジムに対しては、即座に感じるのだ。
前提として同じ「システム」が存在していること、それによって初めて成立するコミュニケーションと、それの与える「インパクト」。 
言うなれば日常的には、コミュニケーションと言った時に、力押しにその成果=インパクト(多くは「感情」のことだが)の濃度ばかりが注目されるが、それはあくまで結果であって本当はその前に、前提として問われなければいけない(システムという)問題が存在するのだというそういうことですが。 
相手を冷たいとか異常だとか断ずる前に。「議論」という特殊なコミュニケーションの場合は、それは枠組みや文脈の共有という問題になりますか。「システム」さえ整えば、「インパクト」(成果)は放っといても生まれる。別に強いなくても問い詰めなくても。 


ちなみにこうして晴れて「普通」であることを分かち合って喜んでいる彼(女)らに対して、僕が一番置いてきぼり感(笑)を感じたのは、こういう箇所。 
それからわたしは小石をひとつ拾うと、それで彼のまわりに円を描いた。今あなたはガラスの壁の向こうにいるのよ。わたしは声を出さずに言った。(中略) 
それから、もうひとまわり大きい石をいくつか拾った。「これは、明かり」わたしは大声で言うと、ひとつひとつ、彼のいる円のまわりに投げた。「あなたは闇の中にいるの」わたしは叫ぶ。「そしてあなたには、できるだけたくさん明かりが要るの」。
彼イアンという、ドナが後に会った、まだ自覚の不十分な高機能自閉症者がパニックに陥って機能停止しかかっている時に、それを助けようとドナが奮闘する場面ですが。 
これの何が僕に置いてきぼり感を味あわせたかというと、自分の障害に「システム」的背景や秩序が存在することを同朋たちとの経験によって理解して自信を持ったドナが、今度はそれを糧に先行者として後続のイアンを手助けしようとする、指導しようとするその様子が、立派になったなあと子供の成長を喜ぶと同時に寂しくも思う親の気持ちのようなものを僕の中に呼び起こす(笑)と同時に、もうそちらのシステムの問題がそちらのシステムの問題として動き出していること、独自の体系性を持ち始めている感じに、最早健常者/異なるシステムで生きている人間の出番でないこと、お呼びでないことを、何か非情に突きつけられているような、そんな感覚を覚えるからなんですね。 

こういうのは多分、医者やカウンセラーや教師や、ある種の障害と取り組んでいる人たちは時に感じることだろうと思いますが。 
「システム」的問題によって孤立したり弱い立場にいる人たちに、最初は勿論、理解や同情や保護的な態度は、役に立ったり必須だったりするでしょう。しかし「違い」は「違い」なので、どうしても立ち入れない領域というものはある。 
このように「障害者」(異種族)どうしが独自のシステムで関わり合い始めると特にそうですし、同じ健常者と障害者の関わりの中でも、分かったと思う次の瞬間には、分からないわけですね。違いを突き付けられる。時には明確な、意思表示として。オマエハ、チガウ。 

ここでも善意や努力の限界というものが、示されるわけですけど。 

前回書いた『CBSドキュメント』のサヴァンの天才音楽少年の「音楽性」の問題についても、健常者の教師が無邪気に(善意で)なんか分かったようなことを言ってますけど、結局のところ、では当の同じサヴァンの人(子)たちは、彼の音楽をどう聴いているのかどう聴こえているのか、そこのところを問わないと研究の方向としては全く駄目駄目だと思います。 
番組にも正にもう一人の天才サヴァンミュージシャン(女の子)が出ていて、それなのに一切そういう話が無かったので、何やってんだと思ってしまったわけですが。 


『ハルモニア』自体は、違いを厳しく厳しく描いて、かつ最終的な一致や普遍性の可能性、それはどちらのシステムが「正常」かではなく、より宇宙的に根底的なハルモニアの次元の示唆という形で、一応ストーリー的には完結しています。 
まああんまりそうした「結論」に向けて直線的に集約して行く、そういう話だと理解されるとマズいんですけどね。むしろ最後の部分は、おまけのファンタジーみたいなニュアンス、ご褒美というか。そんなものが無くても、2人の(直接的にはほとんど健常者の凡才教師のですが)努力とその結果の通じあいは、十分に感動的で説得的なんですよね。 

まだ描けてる感覚が無いので、もう一つ、もっと日常的な次元に引き下ろした形で、このことについて書いてみようかなと。 
いつ終わるんだろう。行き当たりばったり。(笑)

コミュニケーションとその前提 篠田節子『ハルモニア』

ハルモニア (文春文庫)
篠田 節子
文藝春秋
2012-09-20


総評に続いて。ブログまたぎ失礼。 

ちょうど今週の(TBSの)「CBSドキュメント」で、この『ハルモニア』のアイデアの元になった”サヴァン症候群”の天才音楽少年(ピアノと作曲)の継続リボートが上がっていましたが、その中で彼の音楽教師が、彼の表現における 
 1.感情の抑揚の無いこと(理解しないこと) 
 2.”感情表現”の為に、演奏に強弱(という”抑揚”)をつけられないこと(必要を理解しないこと)
 3.作曲は出来るが、それに歌詞を付けたり具体的なイメージや感情を付与出来ないことを、彼の”欠点”として挙げていました。 
善意で言っているようでしたけど、僕からするとこれらは別に欠点でも何でもなくて、彼の「音楽」がより純粋であること、その形式性そのもののに中に必要な全てが詰まっていること、そして更に、その音楽教師が言うレベルの「感情」というものが、余りにも日常的で通俗的で、かつローカルで慣習的で、文化固有的なものである、そのことに教師が気付いていなくて無前提に自明化しているという、それだけのことに思えました。 

・・・・まあ論理的に思っただけですけどね。つまり実際の彼の”音楽”をよく聴いて、そう反論しているわけではないですけど。 
ただその教師が、僕が言うような次元の論理的可能性を、視野に入れていないということは、ある程度自信を持って言えます。 
更に言うならば、多分”抑揚”はついているんじゃないかなあと、彼なりに。ただそれは、俗人(笑)や彼と脳の構造もしくは認知と伝達の枠組みを共有しない人には、感じ取れない微妙なレベルで。必要十分には。 
僕自身も、実際に聴いてみないとよく分からないですし、”共有”はしていないけれど一般的な意味では熟達した音楽聴きの耳に、心に、”感じ取れ”ないなりにどれくらい伝わるものがあるのかとか、そこらへんは興味深いですけど。 
つまり、使い方は違っても、「ヒトの脳」には違いないわけで。共通性で行ける部分と、行けない部分と。 

まあ、そんなようなことと、関連した話です。 


『ハルモニア』の音楽指導場面 

改めて確認すると、『ハルモニア』は上記”サヴァン症候群”をヒントに設定された、幼い時の特殊な脳外科手術とその手術中の事故によって、重度の情緒障害や自閉症的な適応・学習・コミュニケーション障害を抱えたある女性が、その代償に得た天才的な音楽的能力(絶対音感と記憶力と再現力)を見出され、それを伸ばそうとあるいはそれによって他人や世間とコミュニケートさせようと、基本的には善意で努力する人たちと関わり、巻き込まれ、引き起こした騒動の顛末を描いた話です。 

ちなみに「ハルモニア」というのは、古来ギリシャ/ヨーロッパで考えられていた、神の創造物たる宇宙の全要素・存在の調和、その調和そのものが奏でている”音楽”のことで、超絶的な再現能力と、裏腹のオリジナリティや”感情表現”の欠如との間で引き裂かれているヒロイン(?)が、最後には到達して、それを通して初めて「自己表現」に成功したように見える、そういう観念です。 
ここらへんの「音楽論」の部分も非常に面白いんですが、専門的になり過ぎるし僕の手にも負えかねるところがあるので、とりあえずモチーフとしてだけ、押さえておいて下さい。あくまでコミュニケーションと認知と伝達一般が、このエントリーのテーマ。 


さて本題に入って、小説の前半部分は、主に男性チェロ奏者の音楽教師(努力で何とか身を立てた二流の演奏家)が天才だけれど障害者の彼女を指導する、その苦闘の過程、特にコミュニケーションの困難に焦点が当てられます。 
登場場面で彼女は、目の前で幼い子が怪我して泣いていてもいっさい無関心で反応しないという、やや類型的な描写でそのキャラクターが示されますが、そういう価値的道徳的”感情”以前に、そもそもの意思疎通、意思が通じているのかいなのか、喜んでるのか嫌がってるのか、好きなのか嫌いなのか、そういう感情自体があるのかと、その段階で男性教師は途方に暮れます。 

それ以前に他の患者たちに対する「音楽療法」場面で、その彼の演奏を傍観していた彼女がとったリズムの正確性から、彼女が音楽に反応することも素質があることも、分かってはいるんですが、いざ教師と生徒として向かい合ってみると、何を言っても何を指示しても、勿論言語的な応答は無いですし、表情や仕草で反応するわけでもない。仕方なく妙齢の女性(20代後半)の体に触れる居心地の悪さを抑えつつ、一つ一つ手を取って(チェロを抱えさせる為に)足を開かせてともかくも弾く態勢を取らせてみても、あるいは手を添えて動かして音を出させてみても、なすがまま。 
そうかと思えばやたら激烈な反応をすることもあって、それはそうして出させた音などが彼女の感受性に不快な場合で、唐突に断固として拒否し、あるいは楽器を取り落として壊し、あるいははねのけた腕で彼に怪我を負わせる。 

ただそれはそういう結果を企図した「意思」的行為ではなくて、限りなく反射に近い、単なる反応なんですね。含むところがあるという意味での「感情」ではないし、我慢の挙句の「かんしゃく」ですらもない。ほとんど機械。 
逆にそうした反応を時にはするということは、彼女が彼とのレッスンそのものは、おおむね受け入れている、弾く/学ぶこと自体は拒否していないということの、証しではあるわけですけど。こうした受容と拒絶の無慈悲な峻別は、レッスンがかなり進んでより音楽的になって、かつそれなりに長期的に安定した「人間関係」を構築出来ているように見えるようになっても基本的には同じで、今度は彼女の音楽的能力の絶対レベルの高さによって、彼のミスや演奏力不足への、剥き出しの違和の表明や拒否や無反応によって、凡才の彼の自尊心を手酷く傷付けるわけですね。 


絶対的ディスコミュニケーション。”思いやり”の敗北 

こうした彼の苦闘を、時に彼の立場で、時に俯瞰的客観的な立場で見ながら感じるのは(”彼女”の立場はなかなか難しい)、絶対的なディスコミュニケーションの恐怖、心臓がギュッと縮こまるような、あるいは皮膚が冷んやりしたものに不意に触れたような感覚。 
そして僕も含めた我々「普通の」人間が、日常無意識に依拠している”コミュニケーション”の世界、その前提と構造が崩壊して行く感覚。 

問題は感情ではないんですよね。意思でもない。彼女は確かに時に取り付く島の無い「拒否」を示しますが、それはディスコミュニケーションの表れや産物ではあっても、”原因”や”本体”ではないんですね。上で言ったように、彼女が具体的には模倣を基本としながらも、結果的に従順に長期にわたって彼とのレッスンを続けている時点で、あえて言えば彼女の”意思”としては、実は十分に彼を「受け入れて」いる。様々な場面での反応から、彼に「好意」を持ってさえ、いるのかも知れないと感じられる。 
明示はされないですが、それは実は終始一貫そうで、にも関わらず彼と周囲の人が悩み、苦しみ、大騒ぎし、しばしば疑い、絶望もし、それに従って彼女の境遇も時に危機的なものとなったり二転三転するわけですが、しかしそれらの過程から透けて見える彼女の「不動」性、あえて言えば<i>”愛の不変”</i>の可能性には、読んでて酷く切なくなるものがあります。”初めて会った時から好きでした。あなたを疑ったことはありません”・・・・のかも、知れない。 

ともかく彼は彼女と意思疎通をしようと、彼女の意を図ろうと苦心惨憺するわけですが、その中で明らかになるのが、通常”コミュニケーション”の場面で主役的扱いを受けることの多い、例えば「熱意」であるとか、「善意」であるとか、あるいは「思いやり」であるとか、働きかけの「努力」であるとか、そういうまとめて”情的な”要素群の、恐るべき無力さ。 
更に言えば、目を正面から見るとか、付随して優しいまなざしとか目と目で通じあうとか、包容的な仕草や接触であるとか、そうした正統とされるノンヴァーバルな身体言語やゼスチャーの類も、全くと言っていいほど意味をなさない、機能しない。 

いや、通じてるのかも知れないですよ。根底では、究極的には。悪意や暴力よりいいのは確かでしょうし。しかし、当座、役には立たない。”通じない”ものは通じない。何かもっと前提的な、構造的な、あえて言えば技術的な要素の欠落や障害や理由があって、彼女は反応してくれない、従ってくれない。そこで「俺の気持ちは分かるだろ?」などと言っても、意味は無いわけです。夜回り先生の不良たちへの”熱血”指導は、ここでは通用しない(笑)。”本気”でぶつかったからどうだという、そういう類のディスコミュニケーションではないわけです。 
逆に実は多少乱暴に何かをさせようとしても、その方向づけさえ正しければ、乱暴さそのものにはそれほど彼女は頓着しない、適切な刺激には適切に反応してくれるんですね。 

どうしたら「適切」なのかというのは、勿論最後まで彼も試行錯誤し続けるわけですが、一つ言えるのは、指導力にそれなりの定評がある音楽(個人)教師である彼の指導の、他の生徒たちには通じたのであろう「熱意」や「思いやり」や身体言語、それらがなぜ他の生徒たちには通じて彼女には通じないかと言えば、それはそれらコミュニケーション上の『言語』、こうしたものはこういうものを意味するというシステム、それを彼と他の生徒たちは共有しているけれど、彼女は共有していないという、そのことです。 
逆に言えば彼が日常、生徒たちと彼らを筆頭とする「普通の」人たちと取り交わしている”コミュニケーション”は、その大部分が単なる習慣的行動であるし、内輪の約束事の応酬であると、そういうことになりますか。「熱意」が相手を動かした、「思いやり」が通じた、そう思っているもののその実態は、多くは相手の言動や行動の記号的意味に対して、快不快の一定の生理的限界の範囲で、システムに則って半ば自動的に反応しているだけだと。こういう時は、こうするものだと、無意識に自分に強制した結果だと。それを社会的な命令や外聞として、意識して(抵抗を感じて)いる時も、無くは無いですけどね。 

繰り返しますが、彼女は感情的に拒否しているわけではないし、彼の善意を疑っているわけでもないし、音楽やレッスンに乗り気ややる気が無いわけでも、全然無い。むしろ言葉を失った彼女なりの「言語」として、外界と関わる、それ以前に外界を積極的に認識するほぼ唯一に近い手段として、相当に、切実に求めている追求しているらしいということも、後に明らかになります。 
しかし、具体的な応答場面では、とにかく通じない。彼女がそれを気にしているかどうかはともかく(それが彼女の「感情」「文化」なのかも知れない)、我々が考えるような意味での”コミュニケーション”は、まず成立しない。なぜなら、それを支えるシステムを共有していないから、あるいは存在していないから。 

実際にはそれでも徐々に彼は、彼女の”反応”(反応しないことも含めての)の読解や予測が出来るようになりますし、彼女も彼女なりに、我々が認知可能な”表現”を、時に示すようになります。(少なくともそう見えます) 
そういう場面では、今度こそ、コミュニケーションの単なる相対的なシステムや約束事ではない、基底的な何かが見えて来るような、そういう段階が予感されるわけですが、それについては特にテーマ的にこの作品で追求されているわけではありませんし、余りに大ごとなので僕も今回はパスさせてもらいたいですけど。(笑) 

・・・・ああ、まあ、「ハルモニア」というのが、正にその”基底的な何か”だと言えばそうか。少なくとも、”音楽”という次元においては。他にも彼が彼女の精神世界を(テレパシー的なチャンネルで)体験する場面では、彼女が幾何学的な”秩序”世界を、かなり直接的に内面に抱いていることが示唆されます。数式で話しかければ、通じるのかも知れない。(笑) 
まあそこらへんは、興味ある人は読んでみて下さい。 


以上、多分あんまり納得してないのではないかとも思われますが(笑)、次に他の(サヴァン的なもの以外の)例を使って、もう少し説明を試みてみたいと思います。

多重人格、まとめ(1)

ハッキング『記憶を書きかえる』

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム
イアン ハッキング
早川書房
1998-04T



をべースにしつつ、全体のまとめ。 
とりあえずのweb上での追究の締めに当たって、言い残しておきたいこと。


要するに人格とは「何」か

1.人格とは、適応の為の「道具」である ?機能的側面

最初に言っておくと、これはあくまで心理学/精神医学上の、更にはそこにおいても所謂多重「人格」と通称される障害・症例が、問題となって初めて改めて焦点化された/され得る認識、用語法だということです。
だから日常日本語として「人格」という言葉が別な、恐らくはもっと包括的な意味で使われることを邪魔するものではないし、実は”専門”たる心理学などの分野においても、従来それほどはっきりした意味で使われていたわけではないんですね、僕の知る限り。『性格心理学』と呼ばれるようなジャンルもあることはありますが、現在単独で重要なジャンルというわけでもない。むしろ占い師に聞いてくれた方が、面白い話が聞けますよという。(笑)

であるから基本的にはテクニカル・タームの話として受け取ってもらって一応は構わないんですけど、ただ僕としては「多重人格」という”衝撃”を通して、日常的なレベルでも、「人格」概念の変容が、なるべくなら起きて欲しいなと、思っています。それは別に学的概念の方が「正式」だからという権威主義ではなくて、そっちの方が内容的に、使用価値が高いと思うから。言い換えると、幸せになれると思うから。(ある種の不幸を避けられると言った方がいいかな)
例えば精神分析による『無意識の”発見”』が、「意識」や「自己」についての把握を、柔軟化したように。自分の中の欲望や非合理に、より優しくなれるようにしてくれたように。・・・・その”柔軟”性そのものを不幸だと感じる人が、一定数いるのも事実だと思いますが。奴隷&地蔵志願者を救うのは、いつの時代も難しい。

まあ、「学的」というか、僕の把握ですけどね(笑)、一応言っておくと。学的背景もそれなりに押さえた上での。


前置きが長くなりましたが、思うに「人格」とは、適応の為のツール、道具、もっと言えば方便、それ以上でもそれ以下でもありません。・・・・適応、だけでは不親切だから付け加えるとすれば、外界や他者からの刺激や影響に対して、こちらが反応する、アジャストする、その為の、フィルター、あるいは一定の条件(環境や他者という)下での反応パターンの集積・総体ということです。

これと対照的な認識としては、人格が”アイデンティティ”の根幹であって、自分そのものである、自分という単一性・統一性の別名であるという、そういう認識、または用語法。一般には現在でもそうであろうし、そうであるからこそ、その人格が『多重』(その前段階として”二重”)化するという現象が、”衝撃”であり奇異であり、今もって断固として認められないという人もいるわけですね。

そこが既にして間違いだと、ハッキングは繰り返し言っていて、僕もそう思います。人格如き頼りないものが、アイデンティティの源や「自己」の別名であるものかと。だいたい安易に根拠づけすると安易に崩れて危ないので、大事なものほど留保を沢山持たせておかないと、後で酷い目に遭います(笑)。ある段階での自分の言葉の未熟が、未来の自分を脅かす。自分の言葉に自分が騙される。問題だあ問題だあ・・・・ほんとか?

話戻して最初の定義に従えば、ある人格がそうであるのは、あくまで「条件」によるわけです。
だから論理的に、その「条件」が変われば、「人格」も変わるのです。当然です。それが人格の多重性の、最も単純な実態。
勿論そのことと「精神障害」としての多重人格は、イコールではありません。現象としてはまず、これは次の2.のテーマですがそれら人格間の「記憶」の分裂・不通があるかどうかが、それが”障害”と呼ぶべきものかどうかの決定的な要素としてありますし、また普通に暮らしていて突然「多重人格」になるということもまずありません。何か特別な原因や環境は、たいてい見て取れる。

更に言うならば、通常のレベルで言えばむしろ人格を「多重」化出来ないことの方が、精神衛生的に問題であることも多くて、例えば古い言い方ですが、「会社人間」などというのはそうした状態です。”会社”という「条件」が変わっても、同じ反応パターン=『人格』でしか反応出来ず、それにより新たな環境への適応に困難を生じるという。(それ以前に上手く会社用の「人格」が作れない、ということの方が、現在の悩みとしては大きいかも知れませんが)
・・・・という言い方をしてもいいですし、たいていの場合は実際には多様な内容・傾向を抱えるその人の全体性を、概ね一つの「人格」であるとみなして、あるいは最も頻繁に使う「人格」のカスタマイズとして、何となく誤魔化しながら、一生をやり過ごすわけですね。精神科医のお世話にはならずに。(笑)

これらはある種認知や”名づけ”の問題だとも言えて、この段階でも敏感な人や意図してそう見る専門家の目からは、十分に「多重人格」だったりもするわけです。・・・・ただし記憶の分裂に代表される実害が無ければ、特にそう診断する必要はありませんが。
だから、と、繋いでいいのかな、一種の多重人格”ブーム”の後、ある時期以降のアメリカを中心とする精神医学界では、なるべく「多重」性及び「人格」の独立性を強調しない方針を取っていて、正式な診断名も『解離性同一性障害』となりました。これはニュアンスとしては、”沢山の「人格」がある”のではなく、”一つの十分に成熟した、(大きな)「人格」が形成出来ていない”という、そういう含みを持った概念です。ある意味一般人の感覚に合わせたとも言えますし、「法的」で「公の」ものとしての堅固な『個人』性を重視するアメリカらしいとも、そう思います。僕は今いち説明的過ぎて気に入らないんですけど(笑)、それはともかく。

とにかくやや中を取ったような言い方をすると、可能性や必要性は常にある人格の「多重」性が、限度を越えて辻褄・連絡が悪くなってしまった状態、あるいは個別の基本的には便宜的に存在を許されていた「人格」が、何かのきっかけで独立意識を肥大させてしまった、もしくは全体性・全能性を誤認してしまった状態、それが”病気”としての多重人格だと、そんな風な構図で見ておけばいいかと。ハンフリー/デネット/ホワイトヘッド的な”国家”という比喩を使えば、ある政府の各省大臣が、それぞれ自分が国の代表だと主張し始めた、首相の存在を忘れたか、あるいは「総理大臣」というシステムが壊れたか。
それに対して統一的システムを再建・構築するか、あるいはそれが難しいようなら集団指導体制を認めて継続可能なものに整えて行くか、治療の方針としても分かれるようですが。


語源的に言えば、つまりは古代ギリシャの”ペルソナ”(仮面劇の仮面)に近い概念に戻った感じですね。特定の内容や役割を、必要に応じて付けたり外したりする。別に”能面”でもいいですけど。今は般若ですよお、今は夜叉ですよお。
”戻った”というのは、それを語源とする英語のpersonalityには、どういう経緯か知りませんが明らかにそれ以上の内容・ニュアンス、恒久性や全体性が付加されているからで、それの訳語なのかな?知りませんが、日本語の「人格」も同様。
背景には恐らく、近代における「人間」という概念の誕生または肥大ということがあるのでしょうけど。余りにも人文化し過ぎてしまった。自分も”現象”であるという側面と、上手く付き合えなくなってしまった。

そうして生じたやや無防備に直接的自明的な、自己の単一性・統一性の幻想が、近・現代人を苦しめているところがあると、「自分探し」に狂奔させているところがあると、そしてそれを足元から丁寧に解きほぐしてくれる格好のガイドとなる可能性を、多重人格という専門的かつ通俗的な、不思議な吸引力のある現象・障害は持っていると、そう思うわけです。

次にまずは「記憶」との関連で、”障害”としての多重人格のより具体的な実態と、そこから可能な概念的把握について、その後そうした人格の「多重性」の背後に、どのような統一性恒久性を見るべきなのか、僕の考えを述べてみたいと思います。
最新コメント
記事検索
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ