「個人」についての(西洋の)道徳
一、アリストテレスの『目的論』
(神と離れた)個人が存在する目的は、自意識を持つ完全な個人に成長することである。(決定論・運命論的な「成長」「成熟」)
二、ジョン・ロックの『唯名論』
記憶が個人のアイデンティティの基準であり、本質である。(事実性/社会性を主眼とする合理主義)
・・・・法的責任主体としての「個人」。
三、カントの『自律』(倫理学)
人間は道徳的な自己を構築することに責任がある。(自由と選択。後述)
四、記憶政治学(記憶の科学)
個人は記憶と性格によって構成される。”二”の強化版科学版。
記憶の正確性や一貫性、それに基づく性格の安定性こそが、個人の根源でありアイデンティティである。
(注)
基本的に”三”の立場に立つ筆者にとって”四”は、個人の現在や未来が、記憶、つまり偶然的な過去の経験のありようによってのみ決定されてしまうという受動性、無責任性において、不十分な考え方である。
「自律」と「自由」 ・・・・”三”について
その道徳理論を特徴づけているのが、カントであれ、ルソーによるものであれ、ミシェル・フーコーであれ、変わりはない。(中略)
彼らは、自分自身の性格、自分自身の成長、そして自分自身の道徳性に対する責任の取り方を自覚することを求めた。
・・・・「自律」。
これらの哲学者は、自然界の万物と同じく、われわれ人類は、生まれつき目指そうとする、完全に定義された目的を持っているという古代ギリシアの観念を克服した。(>一、アリストテレス)
と、いうよりも、現代においては、われわれは、自分で目的を選ばねばならなくなったのだ。(中略)
われわれは、なぜその目的を選ぶかを理解しない限り、完全に道徳的な存在とはなりえないのである。
・・・・「自由」。
「自律」と「自由」の観点からの、ゴダードによるバーニス・Rへの治療の批判
彼女は再構築され、ゴダード博士の住む男性支配世界、つまり娘を犯すような父親はほとんど存在せず、あまり丈夫ではない若い女性が、パートタイムの秘書として働ければ、治療は済んだとされるような世界の中に組み込まれたのである。(中略)
既に(近親姦によって)かなり弱められていた女性としての自律は、いかなる形のものであれ、事実上、抹殺されたのである。
ではどのようなセラピーが望ましいか ?現代の多重人格セラピーの問題
(現代アメリカの多重人格セラピー/運動への)
慎重な懐疑論者たちが心配するのは、多重人格セラピーを受けて、一ダース以上の交代人格たちと懇意になり、そうした交代人格たちは幼いころに、性的虐待を含むトラウマへの対処の手段として形成されたと信じる患者たちのことなのである。
これは今日典型的な多重人格の症例・セラピーの、事実としての”否定”ではない。
幼いころの虐待の記憶らしきものが、必然的に悪いとか、歪められているというような出過ぎた意味ではない????それも真実そのものなのかもしれないから。
そうではなく、(それらの”セラピー”の結果)最終製品としてできあがるのは、念入りに加工された個人であって、われわれ人間を、個人として成立させるために必要な目的に向かって努力する個人ではないという意味である。
すなわち、自己認識を持つ個人ではなく、(多重人格をめぐる出来合いの物語に自分をはめ込むことによって)自己理解をしたつもりになって、口だけはよく回るが故に一層悪い個人なのである。
彼らが尊敬するのは、クライエントに自信を持たせ、自分の人生を生きていけるように支援する臨床家である。
過去と虐待者への被害者意識を煽るだけでなく。
ここらへんをフェミニズム的な観点で言うと、
あまりにもたくさんの多重人格セラピーが、暗黙のうちに古い女性のモデルを強固にしている(中略)
すなわち、勇気を持ち続けることができずに、弱い女性としての自分自身の物語を、過去にさかのぼって創造する受動的な女性という
自分は虐待の被害者(でかよわい女性)なのだから、無力なのは仕方ないのだ、という逆の安心感。
(結論)
以上は基本的に、セラピーの効果・妥当性という、功利主義的な観点によるものだが、
私の考えでは、彼ら(慎重な懐疑論者たち)が心の中で疑っているのは、多重人格セラピーの結果は、ある種の虚偽意識ではないかという点である。これは、深遠な道徳判断の問題である。
”虐待”を中心とする特定の病因論の枠組みに進んで飛び込むことによって、真の自己認識の機会をあらかじめ奪われてしまう。
個人というものは成長し、成熟して、自分自身を知るようになるという考え方に、虚偽意識は反している
それは人間であるとはどういうことかという問いに対してわれわれが持つ、最良の見解に反しているのである。
・・・・最後に自分の言葉でまとめて、終わりにします。