多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

2007年02月

グルジェフと現代心理学

承前。タイトル変わってますが気にしない。
以上の基本を踏まえて両者の比較、すり合わせ。


(共通点)

1.「人格」の機能・定義

グルジェフ:社会的な要素の集積によって後天的に形成された、社会的な自己
現代心理学:社会行動・適応の為のペルソナ

・・・・多重人格という現象により単一性の幻想が破られ、「アイデンティティ」という伝統的な意味合いが後退したことによって、結果的に両者が接近。


(相違点)

1.「本質」という概念

グルジェフ:生来の部分の成長したものとしての「本質」概念を、「人格」と対置。
現代心理学:今のところそれに相当する概念はない。

・・・・「人格」概念が変容した(グルジェフ的なものに近づいた)のだから、論理的にいずれそういう概念が心理学の方でも発展してくることはあり得るかも。「単一性」幻想が覆い隠していた何か。


参考:ポスト単一「人格」時代のアイデンティティ基盤

(1)”本来の”人格

多重人格障害の治癒をめぐって、伝統的に患者/治療者双方が、まず素朴に追い求めるもの。”偽の””かりそめの”人格ではない、”本来の””オリジナルの”人格。
たいていは「ある年齢で外界から身を引いて成長を止めた(子供の)人格」というイメージをとる。

*感覚的には、同様に成長度合いの年齢的な個人差が語られるグルジェフの「本質」概念とも重なるようにも思えるが、グルジェフのそれは特に病的現象ではなく、「人格」と共にちゃんと時を刻みながらそれでも成長したりしなかったりするという質的な概念なので少し違う。何らか関係がありそうには思えるが。

(2)結果としての単一性

”オリジナル”人格の追求というものは、あたかも「神」や「真理」を追い求めるがごとき、果てのない/当てのない無限の検証作業になってしまう危険がある。
またそれは”多重人格”がすこぶる例外的で異常な現象である、あるいは本来「単一」である人格が「分裂」するという劇的なイメージで考えられていた時代の思考法とも言える。

現在は多重人格は割合ありふれた、誰にも十分に起こり得る現象であり、また「障害」という顕著な形では表われなくとも誰の中にもある程度の多重性は存在し、それが緩く統合されているのがいわゆる「正常な」状態であるというような考え方が主流になっている。

だから”本来”がどうであれ、今現在or将来的に何らかの形で一定の統一性が保たれることが目標であり、アイデンティティも言わば>既成事実の追認的に、総体として考えていくというのが1つの方向性。
極端な場合は、明らかに独立性を持った複数の人格が個人の中に並存していても、そのことをその個人が全体として受容し、また対社会的にも大きな実害ある分裂が表われなければそれで良しとすることもある。それが自分(たち)だと。


2.「人格」及び「意識」概念の厳格性

単一であれ複数であれ、基本的に一般心理学や現代の常識的人間観においては、「人格」というそれなりにまとまりを持った主体が”あり”、それが「意識」的「意志」的に活動を行なうことによって人間の生活が成り立っているという視野の元にある。
しかしグルジェフの場合はむしろ”ない”こと、人間(<私>)が外界や他者やあるいは生理的欲求などの生物的規定性に影響されるままに、「無意識」的「無意志」的に”反応”するだけの機械的存在であることを基本に、人間について語っている。

前にも書いたように(”統一性/一貫性の程度をどれくらい必要ととるか”)これはある程度は言葉遣いの問題で、最終的にどちらの記述法が説得的包括的、また実用的に事態を説明出来るかで用語の使用権は決まって来るのだと思う。いわゆる「実証性」の問題も、こうした”競争”に含み込まれるような形で存在するものなのではないか。証拠を証拠たらしめるのは枠組だ。

それはそれとしてあえて公平な(?)立場から両者のすり合わせを試みてみると、グルジェフが言っている『強い私』のようなもの
もちろん強い<私>も弱い<私>もある。しかしそれは、それら自身の意識的な強さではなく、偶発事や機械的な外的刺激によって作り出されたものに過ぎない。 
教育、模倣、読書、宗教の催眠的魅力、階級、伝統、新しいスローガンの魔力などは、非常に強い<私>を人間の個体の中に作り出し、それらは他の弱い<私>全部を支配する。
が我々の普通言う「人格」であり、現れては消える『弱い私』は無視して事態を単純化抽象化することによって、常識的な枠組は成り立っていると、そういう見方も可能かと。(実際多重人格者の「人格」を数えたりそれらと交渉する場合、そうした意図的単純化はしばしば行なわれる)
グルジェフの場合はむしろ『弱い私』の方に基準を合わせて、そうした微細なレベルも含めたある意味ではより包括的な枠組で理論を組み立てていると、そういう言い方も出来るのではないか。

まあどちらかと言えば「心」や「人間」といったロマン的概念とは一線を画しながら活動する自然科学者や、あるいはその影響下にある行動主義的or生理学主義的な心理学者と似たタイプの存在であると、そういう感じもします。・・・・ただし、そうしたタイプの学者に欠けている全体的な洞察力やイメージの喚起力をも、グルジェフは兼ね備えているように思いますが。


まだまだ書くべきことや書きたいことは沢山ある気がしますが、とりあえず今回はこれで終わり。

グルジェフの<私>と「人格」

軽く脳味噌がヘタってますが、何としても今週中にケリをつけるぞとラスト稿。

何百何千の<私> の ”<私>”
「人格」と「本質」 の ”「人格」”

はどういう関係にあるのか。現代の精神医学的現象としての「多重人格」(解離同一性障害)を考える上で、どういう意味を持ち得るのか。
実は僕も書きながら考える感じなんですが。


まずグルジェフの<私>という言葉の定義ですが、”解”編でも書いたように、抜粋4のこの箇所が非常に核心的かなと。
複数の<私>が支配権を握ろうと始終戦いを続け、また事実それは交替しているのだが、それは偶発的な外部の影響に左右されている。暖かさ、陽光、いい天気などは別の<私>のグループ、別の連想や感情、行動を呼び出すのだ。 
複数の私のこの変化をコントロール出来るものは人間の内には何もない。それは主として、人間がそれに気づいていないか、知らないからであり、人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。
時々で変わるその中身が何であれ、ともかくもその時
 <私>として働いているもの
あるいは
 <私>と名付けられているもの
が<私>である。
間違いがないと言えば間違いがないですが、無意味と言えば無意味なかなり抽象的な定義。

それに対して「人格」は、「人格」/「本質」という二項からなる概念的枠組のいち構成要素であり、「本質」が”自分のもの”つまり自分の中にある元からあるものによって成り立っているのに対して、「人格」は”自分のものでない”つまり外から来たものによって成り立っている。
「本質」が僕の言う「魂」に比べれば抽象的/機能的定義であるように、「人格」も特定の何かを指しているわけではありませんが、<私>の定義の究極的な抽象性に比べれば、それなりに具体的/構造的な定義かと。

思い切り分かり易く整理すれば
 <私>という機能の構造論が「人格」/「本質」である
あるいは
 <私>は「人格」と「本質」によって成り立っている
と言っても多分大きな間違いではないですが、なんというかグルジェフには鼻で笑われそうな(笑)猪口才な細工という気が。基本的にはそれぞれの文脈、それぞれの論の目的に応じて別々に考えるべき話だと思います。そんなに”体系”としての全体性/整合性を追求はしてない。”説法”ですからね基本的に。


一方の現代の心理学/精神医学(及び常識)の方ではどうなっているかと言うと、

まず「人格」の機能としては、
1.その人がその人であるアイデンティティの源、あるいは別名。
2.人間関係、社会生活を営むためのペルソナ(仮面)
という二面が何となく割りと緩い定義で一緒くたに考えられていた/使われていたところに、”多重人格”という衝撃的な現象が一世を風靡して、1.の用法がある種後退した。そして2.の側面を中心として、ある意味では初めて意識的で厳格な定義づけの動きが一般化した。

そして現在”多重人格”という現象を視野に入れて、あるいは多重人格を考えるor治療する目的の下にどうやら共通化している「人格」の定義としては、

特定の(時期や状況における)記憶を背景にした自己意識に基づいた、思考・感情や行動のパターンの集積

といったものがあげられるのではないかと思います。
上ではわざわざ”特定の”という断りが入っていますが、つまり記憶に十分な一貫性/統一性があれば思考・感情や行動のパターン、つまり「人格」にも一貫性/統一性がもたらされ、単一の「人格」を持った”正常な””健康な”人間とめでたく(?)認められるわけです。
言い換えれば多重人格とは記憶の病であると、そういうことになります。

ちなみにこの記憶への注目の背景には、

1.多重人格者が社会生活を送る上で最も端的に困難を訴える側面である。
2.伝統的な心理臨床において、多くの場合、記憶の分断・障壁を取り除くという方法で治癒・人格統合が達成されて来た。
3.多重人格者(等)の脳において、実際に強度のストレスによる(記憶を司る)海馬の萎縮が認められることが多い。(という最近の知見)

といった事情が存在します。

(つづく)
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