多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

2006年03月

9.分裂病

・・・・多重人格(障害)と、分裂病(現・統合失調症)を筆頭とする他の主要な疾病カテゴリー及び理論との精神医学史的関係。


#アウトライン

(1)19世紀後半から20世紀初頭、フロイトらによる精神分析・精神医学の初期においてその中心課題であった”ヒステリー”の目立つ例として、二重/多重人格も大きな関心を集めた。

(2)しかしヒステリー自体がその地位を失うと共に、多重人格も重要視されなくなった(特にフランスにおいて)。その際多重人格を理論的に支える『解離』概念を先駆的に強調・提唱したジャネも、”躁鬱病”の特殊な例として多重人格を軽視するという転向(?)を行なっている。

(3)代わって主役の座に踊り出たのがブロイラーが命名した”分裂病”であるが、その病態としての「分裂」はいわゆる多重人格の「人格分裂」とは根本的に異なるものである。

(4)フロイト精神分析と多重人格は理論的に敵対関係にあり、アメリカにおいては色濃く政治的な理由で多重人格はいったん関心の外に追いやられた。

(5)その後『幼児虐待』というかつてのヒステリーに代わる立脚点を得て、再び多重人格は(アメリカにおいて)大きな注目を浴びることに成功したが、今なお状況は揺れ動いている。




多重人格とヒステリー

「特殊な種類の人格動揺が“交代的人格“であり、これは“二重意識”としても知られている。平凡な生活を送ってきて、急にヒステリーになった女性を取り上げてみよう。何らかの既知もしくは未知の理由から、彼女はヒステリー睡眠におちいり、目覚めると同時にそれまでの生活をすべて忘れる。」(ブロイラー)


「こうした(多重人格的な)ヒステリーの症例を深く究明する必要はない。われわれは、催眠術の暗示によって、まったく同じ現象を実験的に作り出すことができる」(ブロイラー)


「フロイトは『ヒステリー研究』の中で、別々の場所で六回以上この言葉(”第二状態”、多重人格の祖語の一つ)を使っている。」


「実際、フランスにおける多重人格の波は、一九一〇年までに完全に終息していた。これについては簡単に説明がつく。フランスの多重人格は、ヒステリーのしるしのもとに生まれた。多重人格者とはすべてヒステリー患者で、(中略)一八九五年から一九一〇年までの期間に、ヒステリーはフランスの精神医学の中心問題ではなくなった。」
「その結果は?多重人格が拠り所とすべき医学上の場所はなくなったのである。」


多重人格と分裂病

「一九二六年以降、『医学索引』に記載された分裂病の論文の数は、多重人格の論文よりはるかに多い。つまり、一九一四年と一九二六年の間に、逆転が起きて、分裂病が多重人格を圧倒したのだ。」


「ただし、彼(ブロイラー)はこの言葉(”分裂病”)に二重意識のプロトタイプの場合のような、交代的に個人を統制する複数の人格への分裂、という意味を持たせたわけではなかった。彼の意図は、『精神機能の“分裂”』を示すことだったのだ。」


「分裂病患者は、論理と現実に対する感覚が歪んでいるのに加えて、態度、感情、行動の調和が取れない。これに対し、多重人格者は、論理や現実の感覚については問題ないが、断片化していく。」
アト注:つまり分裂病はある人格の内部の精神諸機能の”分裂”。多重人格はある一つの身体の中に人格が複数あるという”分裂”。一つ一つの人格の精神機能自体は分裂していない。


多重人格と躁鬱病

「彼(ジャネ、後述)は、二重人格とは、ごくありふれた病気の特殊でまれな症例とされるべきだ、と考えたのである。つまり、抑鬱と躁と安定の時期を周期的に交代する患者、『初期のフランスの精神科医が循環病患者と呼んだ者」のことである。


多重人格と精神分析

「精神分析は、アメリカの医科大学の精神医学部門で、長年にわたり優位を占めることとなった。(中略)基本的な商売道具として、フロイトの抑圧はプリンス(アメリカの多重人格運動の草分け)の解離を圧倒した。」
アト注:『抑圧』と『解離』の理論上の問題は後の章で。


「フロイトに対する(多重人格側の)恐怖と嫌悪を理解するのは容易だ。幼児虐待運動のフェミニスト派は、フロイトを軽蔑している。ちなみに、この派は、多重人格には好意的である。いわゆる誘惑理論をフロイトが放棄したことに、ジェフリー・マスンが痛撃を加えたため、性的幼児虐待に関心を持つ者にとって、フロイトは悪玉となった。」アト注:”誘惑理論”と精神分析(と多重人格)
簡単に言うと、フロイトの初期の女性患者による「父親や叔父に誘惑された(性的虐待を受けた)」という訴えを空想である、無意識の現れであると断じることによって精神分析理論は成立した。逆にその種の訴えを基本的に事実と認め、社会問題化することによって今日の多重人格のアメリカにおける隆盛はある。


「次に浮かび上がるのは、負い目から来る罪悪感だ。多重人格の病因学は、初期の(精神分析確立以前の)フロイトの発想に著しく類似しているからだ。記憶からくる苦痛、トラウマの影響。このことを、誰もがフロイトから学んでいる。」


「しかし、時代は変わりつつある。取り戻された記憶への批判が高まるにつれ、臨床家たちは(精神分析確立以後の)フロイトへ回帰している。」
「一九九五年二月には<トラウマ、喪失、解離に関する第一回年次総会。主催・二十一世紀トラウマ学財団>と題する、活気あふれる学会が開かれることになっている。(中略)この学会の主催者の目的の一つは、トラウマの治療を多重人格のモデルから外すことである。」

8.記憶の真実(2)

<虚偽記憶症候群財団>

誕生

「ガナウェイの意見は正しかった。セラピーで取り戻した記憶から多くの奇怪な出来事が出てくる(そして多くの信じられないような理論がそこへ入り込む)につれて、取り戻された記憶への疑惑が高まった。」
「多くのセラピストたちは、クライエントが幼少時に家族から受けた虐待を思い出すようになった後、それと立ち向かうことを勧めていた。(中略)告発された親たちの多くは、眼前の事態が信じられなかった。そうした親たちは、申し立てられた記憶は、セラピーの過程でつくられていった誤りにすぎず、エイリアンによる誘拐と同様に不審なものだと言った。」


「そこで、数ヶ月にわたる熱心な活動の後、一九九二年三月に<虚偽記憶症候群財団>がフィラデルフィアで設立された。」


多重人格運動との対決

「<虚偽記憶症候群財団>は、しばらくは多重人格について、論評を控えていたが、組織設立後数ヶ月もたたないうちに、多重人格運動の側では恐れを抱くようになった。」
「すべてを背後で操る<大金持ちの、大きな(そして罪深い)男>のうわさが持ち上がった。その<男>のことが明るみに出れば、財団は崩壊するだろう、と。」
「その後数ヶ月の内に、応急処置的な取り組みが行なわれたのは、主に訴訟への恐怖があったためだった。」


「虚偽記憶症候群財団は、<虚偽記憶症候群財団専門諮問委員会>を設置した。この委員会には多重人格に懐疑的な人々が直ちに集まった」
「財団の第一回年次大会は、一九九三年四月(中略)開かれた。招待された講師たちは、手厳しい批判を加えながら多重人格のことに言及した。」


「この(↑)発言を受けて、ISSMP&Dの元会長フィリップ・クーンズは、《虚偽記憶症候群財団通信》に丁重な文面の書簡を送り、それ以外の点では真摯に行なわれた学会において、このような発言がなされたことは遺憾だと述べた。」
「しかし、この手紙が財団の会報に載ったことと、パットナムが噂についての情報を求めたこと(割愛)を除けば、一年以上もの間、財団の会報が多重人格について触れることはまったくなかった。」
「しかしその後、激しい非難が起こった....偽りを鋭く指摘しながら。」


科学的・理論的観点

フランク・パットナム(多重人格運動の代表的な精神科医)

「十年近くに及ぶセンセーショナルな申し立てにもかかわらず、こうした(”悪魔的儀式虐待”の遍在という)主張を裏付けるような独立した証拠は、何一つ見つかっていない。」(1992)


英国の調査(1944)

「委員会は、悪魔的虐待の存在が強く主張されたものの、とにかく何の証拠も見つからなかった八十四件の事例を調査した。しかし、委員会の結論は、子供が受けた虐待は、もっとありきたりのやり方で行なわれていた場合がほとんどであるというものだった。」


折衷的な見解

「多重人格運動に加わっていたメンバーのうち、もっと多くの慎重な人々は、セラピーで引き出された奇怪な記憶は、厳密な意味で真実なのではなく、患者が、自分を虐待したのは家族に他ならないという無慈悲な現実から自分を守ろうとする手段だ、と述べた。つまり、虐待は本当だが、空想に覆い隠されているというのだ。」

8.記憶の真実(1)

・・・・いわゆる「虐待の記憶」、及びそれに主な根拠を置く「多重人格」(障害)という現象の信用性を脅かす諸問題。

”悪魔的儀式虐待”(SRA=Satanic Ritual Abuse)の告発/問題

端緒

「一九八二年、儀式と悪魔に関する性的幼児虐待の問題が勃発すると、異常な告発が各地に広がり始めた。」
「多重人格を治療する開業医たちのもとに、悪魔的なカルト教団による虐待を主張する被害者たちが押し寄せると、医師たちは自分の耳を疑った。」


「そこ(学会の未刊行の口頭発表)には、カルト教団が密かに創造した交代人格についての話が、かなりあった。そうした人格はセラピーの妨害をするようプログラムされている。また、患者を薬品で治療するときには、正しい交代人格がそれを服用することを確認しなければならない。カルト教団が誘導した交代人格が、薬を飲ませないよう盗んでしまうからである。」


「一九八九年、彼(ジョージ・ガナウェイ:後掲)のクリニックの患者の半数近くと、北米在住の非常に多くの患者が『人肉嗜食の宴や、少女時代に、儀式の生き贄用の赤ん坊を生む母体として何度も使われたというような、長期間にわたる経験の詳しい記憶を、なまなましく報告した』と、彼は書いている。」


展開・影響

「多重人格は、幼児虐待についての意識を高める運動の風土で栄え、その運動が主張する病因学によって正統化されてきた。悪意に満ちた虐待が存在するとの主張が次第に信用されていくにつれて、多重人格運動はその正当性を認められた気分になった。」


「幼児虐待運動の中に儀式虐待という分派が発生するにつれて、患者たちは次第にカルト教団の恐るべき物語を思い出すようになったのだ。セラピストたちが本能的にその話を信じようとしたのは、衝撃的な事実の暴露を信じることが、過去においては正しい戦略だったからである。しかし語(話?)はどんどん荒唐無稽なものになっていった。」


アト注:歴史のある時点までは『幼児虐待』という概念そのものがSRA同様到底信じ難い話であり、しかしそれを事実として受け入れるという決断をアメリカ社会・医学界はやり遂げたばかりであった。

「運動は二極化し、分裂の脅威にさらされた。おおむね大衆主義的な側にいる一方の側が、『われわれは子供を信じるように命令した!だから、交代人格を信じなければならない!』と叫ぶと、他方が、『やめろ....この話は空想だ!』と反撃する。」
「多重人格運動の分裂は、その人の地位の差におおむね一致した。懐疑派に精神科医が多かったのに対して、圧倒的多数を占め、とかく声を大にして主張しがちな一般人は、信じる側に属していた。」


「この議論の表層には、宗教上の違いが存在することが多かった。信じる側は、自らを保守的キリスト教徒、つまりファンダメンタリストのプロテスタントと称する傾向にあり、一方、懐疑的な側は世俗的な態度を取る傾向にあった。」


「ISSMP&Dは、クラフトを長とする特別調査委員会を編成して、カルト虐待を信じる者たちとカルト虐待に懐疑的な者たちとの間の調停を目指した。クラフトは、調停は不可能だと判断したのかもしれない。とにかく、彼は作業部会の会合を招集もせずに辞任した。」


「ガナウェイは、これとほぼ同様の発言をしている。彼は悪魔的虐待の記憶を無批判に受け入れることは、多重人格の信用性を危うくするのみならず、“幼児虐待の研究一般を危機にさらす“、と考えている。」


以下、<虚偽記憶症候群財団>の項につづく。
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