多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

2004年12月

「仮面」たちの事例が示唆するもの

・多重人格の実在性

未だに時に詐病や演技を疑われ、また確かにブーム的な側面も多く持つ多重人格障害だが、こうして全く違う脈絡で同様の現象が存在することを見せられると、少なくともそういうこと(人格の多重化)が起こり得るメカニズムが人間の中に存在していることについては疑うことが難しくなるように思う。

・基本的な機能

今日多くの多重人格者はやれ24人だ50人だと華々しく無限に機能を分化させた交代人格たちを形成するが、ドナの”キャロル”とオリヴィエの”ベティーナ”、ドナの”ウィリー”とオリヴィエの”支配人”の共通性から、「社交」と「(危機回避を含む)現実的処理能力」という生存に最低限必要な二大機能が浮き彫りになって来るように思える。
それが24だの50だのというオーダーになってしまうのは、多分に半ば癖になっている、味をしめて便利遣いしているという面が強いのだろう。生来より深刻な困難を抱え、複雑で贅沢な社会的欲望を持ち得ない自閉症者の場合は、そこらへんがよりシンプル/プリミティヴに表現されるというわけだ。

・「人格」の発達段階?

勿論印象論に過ぎないが、自閉症者たちの示すそれぞれのパターンを強引に総合すると、いわゆる多重人格的な「人格」の形成には下のような発達段階が想定出来るようにも思える。
マルコムの「レパートリー」
イアンの「顔」
ドナ、オリヴィエの「仮面の人物」
多重人格者の「人格」(?)
下に行くほど交代人格としての自律性、”成熟”度(皮肉な言い方だが)が高くなる。

マルコムの場合はまだ母親がつきっきりの子供であり、総合的な適応を要求されることが少ない環境にあるためだろうか、ある種いたずら的にバラバラな行為・反応の「レパートリー」をランダムに使い分ける。イアンは大人であるが、元来比較的スキルに恵まれているのか(自閉症の)病識は薄いままで、一般の人たちも行う状況や周囲の要求に対するごとの「顔」の使い分けをより過激に行う。
ドナやオリヴィエの場合はもう完全に環境と自分自身を切り離して、恒常的な名前と機能の一貫性を持って存在する別人、「仮面の人物」に人生の多くの部分を託してしまう。(それらにより現実性、人間味を加えれば、一般的な多重人格者の「(交代)人格」になる。)

・ドナのアプローチ

ドナとマルコムのやりとりは、服部雄一編で書いた治療の基本方針の1.の象徴的な実例と考えてよいと思う。後にイアン・ハッキング編で述べるが、主流ではないもののそれこそマルコムのようなまだ子供で未発達な多重人格傾向には有効なアプローチらしい。
またイアンの項の一段落目でドナがイアンの「顔」の立ち上がりを押さえこんでいる様子は、逆に人格の断片化/断片的な人格の形成がいかに周囲の要求や期待に応じて発動するものなのかを活写していて興味深い。


今回は以上。
人間、人格、認知、感情といったものの基本的な成り立ちについて実に底無しの示唆に富んだ本なので、揺さぶられる覚悟がある人は(笑)読んでみて下さい。自閉症恐るべし。

高機能自閉症者の「仮面」は多重人格者の「人格」と同じものなのか

以上実例を見て来たが、こうした(高機能)自閉症者が見かけの適応のためにかぶる”仮面”の形成プロセスについて、ドナ・ウィリアムスはこのように説明している。
わたしには、専門用語でいういわゆる「反響言語(エコラリア)」「反響動作(エコプラクシア)」があって、聞こえたり見えたりしているものが何であろうと、おかまいなしに音や動きを真似することができたからだ。(中略)この物真似のおかげで、わたしはパッチワークのように継ぎはぎだらけのものながら、自分がかぶる仮面を作ることができた。(後略)
一方、「自閉症」と呼ばれる人の中には、こうした物真似さえしないために、結局何のことばも発することができず、動くことさえできない人たちもいる。
いわゆる多重人格者の”人格”たちも、基本的にはある特定の状況への適応の為に言わば専門的に形成されるものであり、おなじみの記憶の分断とは別に時に独特な感情の幅の狭さを示すことはある。とはいえたいていの場合は交代の事実を除けば表面的には一人一人普通の意味での人間、個人であり、何十年間も特に何の違和感も持たれずに社会生活を送ることも珍しくない。彼らにはそれぞれに内面があり、それぞれの性格傾向に従って考え、感じ、行動する。決して物真似芸人のように白々しく見えたりはしない。

ドナ・ウィリアムス自身は前述の”マルコム”の母親に、「この子は多重人格なのでしょうか」と聞かれて「別ものだと思います」とはっきり答えている(ただし特にそれ以上の説明は無い)。
その当事者の直観は尊重するし、全く同じものだとは確かに思わないが、しかしその一方で両者のメカニズム自体は同じものなのではないかと思う。つまり自閉症者の「仮面」の感情表出の白々しさや行動の限定性は、自閉症という障害自体の元々のそうした特徴がそのまま反映したものなのではないか、自閉症者には自閉症者なりの、そうでない普通の(?)多重人格者にはそういう人なりの「人格」が形成される、ただそれだけのことのように思える。

(そして究極的には多重人格ですらない我々”健常者”の「人格」の形成とも、そのメカニズムは共通しているのではないかと。)

他の自閉症者のケース

オリヴィエの”ベティーナ”と”支配人” 

”ベティーナ”
オリヴィエにとっての”キャロル”のような人物が現れたのも、ちょうどその頃(十代に入った頃)だったという。その人物はベティーナという名前だった。
ベティーナは主にあの女装のロックシンガー、ボーイ・ジョージをモデルにして生まれたもので、男性にも女性にもなることが出来る人物だった。その人格や個性は、ボーイ・ジョージの絶大な人気によって、保証済みのようなものだ。

オリヴィエはなおも自分を表現できないままだったが、それと引き換えに、ベティーナはいくらでもしゃべることができた。オリヴィエは人と心からかかわり合うことのできる自己を持てないままだったが、それと引き換えにベティーナはうわべだけではあったが、人とかかわりを持つことができた。

”支配人”

さらに、オリヴィエには仮面の人物(キャラクター)がもう一人いた。こちらは正真正銘の男性で、オリヴィエにとっての知的な「自己」の部分であり、現実的なこと、論理的なこと、責任のあることならいっさい引き受けるという人物だった。それらは経験からというよりも、丸暗記で記憶されていた。オリヴィエはその人物を、「支配人(ザ・マネジャー)」と呼んでいた。


マルコムの「レパートリー」
マルコムが、自分のしていることをほとんど実感していないことも、彼自身の本当の感情がどこにも見当たらないことも、すべてこの躁病のような仮面の陰に隠されてしまうのだろう。マルコムは人生を、まるではてしなくチェスの駒を動かすようにして、もてあそんでいるかのようだった。

わたしが話しかけると、マルコムは様々なアクセントで答える。「あなた自身の『はい』はどれ?」わたしは聞いた。「はい」マルコムはアクセントのレパートリーから適当にひとつを選んで、言った。「それもあなたのじゃないわ」わたしは言った。「じゃあこれは?」そう言うと、マルコムはまた別のアクセントで言った。そしてさらに別の、またさらに別の。そうして五つのアクセントを繰り出した後、ついに彼は演技(パフォーマンス)をやめた。
「わかったよ」打ち負かされたように、マルコムは言った。「これがそうだ」。そうして発せられた彼自身の声は、あまりに自然で、あまりにリアルで、思わずわたしは、カウチから突き飛ばされたように思ったほどだった。

「さよなら」わたしは言った。マルコムは、再び目に見えない仮面をかぶった。そうして、壊れたように言葉をまき散らし始めた。

イアンの「顔」
(ドナとの関係の中で自分自身でい続けることを覚え始めていたイアンが、ふとしたはずみに安定を失って)
イアンは突然、感情も、感覚も、なくしてしまったのだ。(中略)かつてのわたしは、たいていこのような状態から、仮面の人物に変わっていった。(中略)
「なんにも感じない。なんにもわからない。」苦しそうにイアンはうめく。自分の「顔」のひとつに変わるために、何かの、誰かのきっかけが欲しいに違いない。だがわたしには、何の要求も期待もない。(中略)だからイアンには”変貌“するための手がかりが、何もつかめないのだ。わたしは彼に、今まで身につけてきた“反応”を引き出すための合図を、何も与えていないのだ。

彼は変になり始めていた。五分ごとに、声も姿勢も顔の表情も変わってしまう。まるでチャンネルの壊れたテレビのようだ。(”ポップアップ”現象)

「顔」と呼んでいる仮面の人物たちは、わたしの場合と同じように、防御のためのものだ。そうして物事があまりにも行き過ぎ、なんの自己主張も出来なくなってしまった時に、さっと出てきて肩代わりをする。
彼の「顔」は、どれも違ったしャべりかたをし、それがまた互いにまったくちぐはぐだった。だがイアンはそれに、気がついてはいないようだった。

わたしは目の前の「顔」に、五分前に言ったことと今言ったことと、まったく矛盾しているのはどういうわけなの、とたずねた。すると仮面の人物はいっそう早く変化し始め、それぞれが違った意見や話題をとうとうと述べ始めた。(中略)それでもわたしは質問を続けた。(後略)
そしてとうとう、イアンは戻ってきた。その目にはみるみる涙があふれ、崩れるようにテーブルに突っ伏すと、激しく泣き出した。

ドナ・ウィリアムズの”キャロル”と”ウィリー”

役割 
”キャロル”と”ウィリー”というのは、わたしが創り出した仮面の人物(キャラクター)で、わたしは過去二十五年間の三分の二を、この二人のどちらかになりきることで生きてきた。

わたしはかつて、このふたつの仮面の裏側に、自分を葬り去っていた。(中略)それは、目には見えない強化ガラスの壁でおおわれた、「ガラス張りのわたしの世界」だった。(中略)そこからなら、まるでショーでも見るように、わたしは「世の中」を眺めることが出来たのだ。

”ウィリー”
”ウィリー”は生き字引のような人物で、事実の世界に住んでいて、ひたすら知識を蓄積し続けた。

彼はいつも確固たる決断を下した。そして非常に冷静で論理的な正義感と、平等の意識を、持つようになっていった。

”ウィリー”は信じられないほど強く、怖いものは何もなかった。(中略)また”ウィリー”は、痛みにも強かった。いや痛みを感じることがなかった。
・・・・多重人格者の「保護者人格」あるいは”ISH”との類似性。女性の多重人格者にはしばしば保護者的な男性人格が現れて、物理的社会的危険・プレッシャーからオリジナル人格を守る。


”キャロル”
”キャロル”は(中略)どんな人にも好かれるタイプの女の子だった。

”ウィリー”は「世の中」とあくまで闘ったが、”キャロル”は自分が「世の中」の側の人間だと考えていた。そして自分こそが、ドナの中の「自己」というものだと思ってもいた。

”キャロル”はどうしても、皆と同じように扱ってもらいたかったのだ。だから、人に受け入れられる役を、永遠に演じ続けなければならなかったのである。
・・・・同様にオリジナル人格が傷付いて引きこもった後に現れ、時に実際の生活の大部分を(多くは交代人格の自覚なく)ホスト人格として支配するタイプの人格との類似性。


誕生

”ウィリー”
”ウィリー”が初めて現れたのは、わたしが二歳の頃だった。わたしのベッドの下に、ふたつの緑色のぎょろぎょろ目玉がいたのだ。初めわたしは怖かったが、それよりももっと怖いものがあった。それは家の中で起きていたこと(以下延々と家庭内で体験した虐待の描写が続く)

そんな絶叫の中で、”ウィリー”は来てくれた。そしてわたしに逃げ場を作ってくれた。

”キャロル”
”キャロル”の方は、”ウィリー”の現れた一年半後にやって来た。

”キャロル”という人物(キャラクター)は、わたしが公園で一度だけ実際に会った小さな女の子が元になっている。わたしは、鏡に映る自分自身の姿の中に、その子の面影を求め続け、遂には鏡の自分の姿こそがその子だと思うようになった。

消失
それから長い年月が流れ、「世の中」に向かって初めて”わたし”が目覚めた時、(中略)もはや”ウィリー”も”キャロル”もいらなかった。本当に必要なのは”ドナ”だった。わたしは、長い間自分を支えてくれた仮面の二人に、別れを告げた。

(プールで溺れかけ、差し伸べられる多くの救助の手に自閉症特有の身体的接触への恐怖から、かえって深刻なパニックに陥る体験をした後)
”ウィリー”は、わたしを救いにも守りにも来てくれなかった。(中略)”キャロル”も現れなかった。現れて、わたしを元気づけたり笑わせたり、こんなのはただのジョークだというふりもしてくれなかった。(中略)わたしはわたしでしかなかった。

一時的復活

”ウィリー”
(低血糖で判断力が極端に低下して、治安の悪い地域に迷い込んだ時)
その時、これはまずいという危機感が、わたしの心を揺さぶった。だがその意味が、分からない。「歩け」わたしは自分に向かってただ静かにそう命令した。(中略)それが、速く、速く動けとわたしを促す。”ウィリー”が、ぎりぎりのところで戻って来たのだ。「ホテルに戻れ」”ウィリー”は、有無を言わさず鋭く告げた。

”キャロル”
(教育実習の重要な試験の直前に数少ない信頼していた友人から一方的な拒絶を突きつけられて)
わたしは逃げたかった。泣きたかった。病気になってしまいたかった。しかしその時あの”キャロル”が現れたのである。再び素晴らしい演技をするため、死からよみがえったのだ。”キャロル”は(中略)はつらつと授業を引き受けた。(中略)「聴衆」はその演技を楽しんだ。そうして授業は「大変良い」と評価された。

アスペルガー/高機能自閉症と多重人格

自閉症だったわたしへ〈2〉 (新潮文庫)
ドナ ウィリアムズ
新潮社
2001-03T



詳しくはここなどを参照してもらいたいが、アスペルガー症候群、高機能自閉症などと分類される特殊なタイプの自閉症者がいる。簡単に言うと知能や学習に健常者からの大きな劣勢が見られず(むしろ天才的能力を発揮することも多い)、また自閉症と聞いて一般の人が連想するようなあからさまな”自閉”症状、外界との非交渉的行動を示すことの少ない自閉症者のことである。

そういう人たちはきちんと診断されないと自閉症、障害と認められることがなく、部分的に示す自閉的あるいは奇矯な言動・行動から単に問題児、協調性のないわがままな人、お高くとまった傲慢な性格と誤認されて排除や迫害を受けることも多い。またしばしば本人も自分のそういう傾向に悩み、なかなかその本当の原因に思い至らずに自責の念を抱き続けたり無理解な周囲の人に不信や絶望を感じる。

どんなに「高機能」で軽症に見えたとしてもやはり彼らは自閉症特有の認知/現実解釈/表現のシステムの重大な欠陥、あるいは健常者との齟齬を抱えているのであり、彼らの見かけの適応、「高機能」ぶりの陰には尋常でない努力や特異な工夫が隠れている。
そしてその”工夫”の代表的なものとして多くのそうした人たちが報告しているのが本書でドナ・ウィリアムズが『キャラクター』『仮面の人物』と呼んでいる、多重人格者の”人格”とよく似たツールである。僕の知る限り両者の関係について学問的に確定した認識はなされていないようだが、多重人格という現象を理解する上で有用だと思うので以下に事例をまとめてみる。

なお本書はドナ・ウイリアムズが(高機能)自閉症者である自らの内面を鮮やかに描写して世界的ベストセラーとなった『自閉症だったわたしへ』

自閉症だったわたしへ (新潮文庫)
ドナ ウィリアムズ
新潮社
2000-06-28


の続編、後日談である。

日本人患者のISH

特に日本人だからという理論化はなされていないが、とりあえず服部雄一が実際に扱った日本人患者たちに現れた”ISH”人格の特徴を見て行く。


女性患者AさんのISH「僚」と「友梨」

「俺の名はリョウ。『僚』と書く。友人という意味だ。ただし俺は交代人格ではない。俺は五人を導き、行く手を照らすものだ・・・・・五人の背を押す風のようなものだ。ヘルパーでもあり、中継地でもある。(中略)俺は五人全員の一部でもあり、すべてでもある。だからすべてが分かる。俺は呼べばいつでも現れ、アドバイスする。」

これは「僚」がAさん以下5つの交代人格たちに向けて書いた手紙である。
”ISH”の特徴が端的に要約して表現されているが、特に注目すべきだと思うのはその名前の由来である。友人だから「僚」、あくまで役割に特化した命名で、個人としての自意識は極端に稀薄である。実はもう一人のISH、女性人格の「友梨」というのも”事を「有利」に運ぶから”というこちらもISHとしての役割を表現しただけの名前で、ここらへんは徹底している(駄洒落とか言わないように)。

言ってみれば表意文字である漢字/日本語ならではの命名法で、表音文字であるアルファベット/英語を使うアメリカ人患者のISHには出来ない芸当(笑)だが(それに限らず割合日本の交代人格たちはあだ名や季節などの発生時の状況からそのまま適当に命名して済ましていることが多いように思う。個人意識の違い?)、とにかく自ら言っているように単なる交代人格の一人ではなく、自分自身が独立した個人として生きる気はさらさら無いという意志が込められている。実際「友梨」の方は治療の過程で、「もう自分の役割は終わった」と統合するまでもなく勝手に消えて行ってしまったということだ。

第二のISHに十五歳の少女人格「友梨」がいる。(中略)行動力のない僚を補佐する役目をもつ彼女は「牧羊犬」と自称する。僚と友梨は羊飼いと牧羊犬の関係にある。
Aさんによると、友梨は牧羊犬のように機動力があり、人格たちが逸脱した行動を取るのを監視し、守る役目をもつ。他の人格の記憶をほぼすべてトレースでき、意識喪失をともなわずに活動できる。
僚も友梨もまことに模範的な(?)ISH、別の言い方をすればアリソンが元々描写したタイプのISHに近く、最初にアリソン、次にこれという順番で読んで行った僕はてっきりISHとはそういうものだと思ってしまったので、尚更その後の汎用化されたISH概念に違和感を覚えたわけである。

それはともかく(名前の件を除けば)アメリカ人患者と日本人患者のISHに基本的な違いは無いようだ。服部雄一がこの本で挙げている3例の中でこうしたISH人格が現れたのは1例のみだが、アメリカの統計でも出現率はばらつきが見られるようなので、取り立てて特異なことではない。
またアリソンのISHの宗教的・超個人的な性格を、僕はアリソン自身のパーソナリティの反映ではないかと仮に想定してみたが、服部雄一にもそうしたISHが現れるということは必ずしもそういうことは言えないのかもしれない。(ただし後に述べるように服部雄一はアリソン同様にエクソシズム的な治療も行ったりしているので、ある意味での親近性はあるのかもしれない。)


最後に雑感だが、上の手紙の中の『俺は交代人格ではない』という表現は多少不自然というか過度に説明的な印象を受ける。恐らくAさん自身がなにがしか本などで多重人格について予備知識を得ていて、その語彙を「僚」人格が使ったのだと思う。僚のパーソナリティ傾向そのものにそうした予備知識(それこそアリソン理論の影響)が反映している可能性も考えておくべきかもしれない。
そもそも多重人格というトピックス自体、今日の日本人にとっては後追い、輸入概念という面が強いので、往々にして日本人患者の交代人格たちは変に耳年増というか理論武装しているという臭いを感じることもなくはない。

治療プロセスの定式化(2)

#クラフトとロス

一応別の理論だが、重ねると分かりやすいと思うので一つ一つ対応させてみる。

クラフトによる定式化(題目部分)
1.精神療法の基礎を築く。
・治療者による多重人格の診断の確立。(ロス)
2.予備的介入
・多重人格を患者に通知し、交代人格たちと話し合うこと。
・人格統一を目標とすることを説明すること。
・患者やセラピストに危険な場合は身体的拘束が必要なことを説明すること。(以上ロス)
3.病歴収集とマッピング
・人格システムの構成図を作ること。(ロス)
4.心的外傷の消化
・抑圧された感情を解放すること。
・交代人格たちに迫害者の人格を受け入れるよう説得すること。
・催眠療法。(以上ロス)
5.統合解消への動き
・交代人格間の記憶喪失の壁を壊すこと。
・交代人格たちとの交渉。
・契約書の作成。(以上ロス)
6.統合解消
クラフトの7-9についてはアリソンの項で。
一部当てずっぽうだがだいたいこんなところだと思う。


またいくつかキー概念の説明を。

人格システム

僕が今まで便宜的に”人格グループ”などの言葉で表してきたもの。要するにある多重人格者の内部の全人格、及びそれらの関係性を包括する概念。今後はこれで。

解消

統合の前段階。
交代人格間のコミュニケーションが進み、それぞれが抱える(または逆に忘却している)心的外傷体験の処理が進む中で、記憶や知覚の分断が解消されて一貫性のある行動が可能となった状態。ただしこの段階では各人格の個性や自意識はまだ温存されている。

解消と統合

解消の後にはいよいよ統合が待っているわけだが、解消状態でも注意していれば一応大過無く社会生活を送る事は可能である。ここらへんの事情について、ビリー・ミリガンの担当医だったコール博士はこう述べている。

「彼が社会の中で生き、生活していけるならば、単独経営だろうと共同経営だろうと、会社組織だろうと問題ではない。」

要するに(いわば法”人”として)対外的に一貫性のある意志決定が出来ればいいのであって、必ずしも内部的に完全な一枚岩である必要はないというわけである。一種の極論ではあるが、現実的視点であると思う。また既に存在してしまっている罪の無い”交代人格”たちへの避け難い愛惜、彼らの「人生」の継続の可能性という意味でも魅力的な考え方だ。
実際に現在では、完全統合を目指すかどうかは患者側の選択に任される傾向が強いようである。

(治療)契約書

治療やセラピストとの関係についての取り決めを明文化したもの。法的なものではなく、象徴的なもの。可能な限り全ての人格に署名させる。特定の人格の実生活での暴走の抑止にも利用される。
・・・・多くの場合虐待者とその背後の社会、人間全体への不信感から発生した交代人格たちは、反面約束事の遵守に関しては非常に律儀な傾向があり、署名の効力は思いの外強い。

催眠療法

歴史的に多重人格は催眠と密接な繋がりがあるが、治療技術としては他に精神分析、認知療法、論理療法などが使われるようだ。これらについてはいずれ。なお現在のところ薬物や外科的手法の決定的な有効性は認められていない。

治療プロセスの定式化(1)

参考の為に前回のアリソン本についていた、安克昌(故人)による単体で取り上げることも出来そうな充実した内容の解説からも援用する。 

(基本方針)

多重人格の治療法にはいくつかの考え方があり、それぞれ試みられて来た。

1.ホスト人格とだけ交渉し、交代人格は無視する。(分裂を認めず、そのことによって患者側の分裂への動きを抑止する。)
2.交代人格を追放・消滅させる。
3.交代人格発生の原因となっている心的外傷体験を処理し、それによって分裂の必要性そのものを除去する。

現在主流となっているのは3の考えであり、以下に紹介するものも全てそうである。


(治療プロセス)

代表的な3人の治療者による定式化の比較である。

ラルフ・アリソンの場合(「解説」より)
[準備段階]

1.交代人格の存在の認知
2.病態の理性的受容
3.交代人格たちの協調
4.多重人格であることの感情的受容

[心的外傷を取り扱う段階]

5.迫害者人格の無害化
6.心理的統合

[その後のケアを行う段階]

7.霊的統合
8.統合後の学習

クラフトの場合(同じく「解説より」)
[準備段階]

1.精神療法の基礎を築く。
2.予備的介入
3.病歴収集とマッピング

[心的外傷を取り扱う段階]

4.心的外傷の消化
5.統合解消への動き
6.統合解消

[その後のケアを行う段階]

7.新しい対処技術の学習
8.獲得したものの定着化とワークスルー
9.フォローアップ

コリン・ロスの場合(「多重人格者の真実」より)
[準備段階]

・治療者による多重人格の診断の確立。
・多重人格を患者に通知し、交代人格たちと話し合うこと。
・人格統一を目標とすることを説明すること。
・患者やセラピストに危険な場合は身体的拘束が必要なことを説明すること。
・人格システムの構成図を作ること。

[心的外傷を取り扱う段階]

・交代人格間の記憶喪失の壁を壊すこと。
・抑圧された感情を解放すること。
・交代人格たちとの交渉。
・契約書の作成。
・交代人格たちに迫害者の人格を受け入れるよう説得すること。
・催眠療法。

3つの「段階」、及びクラフトの理論についてのそれぞれへの分類は安克昌による。アリソンとロスについては僕が仮に見当をつけてみた。アリソンとクラフトの項の通し番号はそのまま治療のプロセスを表わしている。
読めばだいたいの事は分かると思うが、いくつか解説を。


#アリソン

2.理性的受容と4.感情的受容

まず多重人格という診断を受け入れることから治療は始まるが、理性的に受け入れることと感情的に受け入れることとの間にはしばしば大きなギャップが存在する。全ての、少なくとも主体となる人格が実感として多重人格という診断を受け入れた時、初めて”本気の”治療を始めることが出来る。

3.交代人格たちの協調

交代人格たち相互のコミュニケーションを助け(「解離障壁」を取り去る)、特に多重人格の最も目立つ現実的症状である健忘・・・・それぞれの人格が互いに知らないうちに勝手な行動(一貫性の無い人間関係や不必要な買い物など)をとらないようにし、生活の安定を図って治療に集中させる。

5.迫害者人格の無害化・・・・前回の統合過程の項参照。

7.霊的統合

通常の統合(6.心理的統合)の後に来る、アリソン独自の過程。ISHという形で示唆された、潜在的なより高次の自己との統合。いわゆる「病気」の「治療」ではないが、「分裂」の「統合」という意味で通常の治療過程の延長線上に置かれる。
・・・・この概念の背景にあるアリソンの独特な人格理論が僕にはまだ良く理解できないので、ざっとだけ説明しておきます。


8.統合後の学習
最終統合したばかりの人格はまだ生まれたての赤ちゃんのように、不器用で、生きるのに慣れていない。
今まで複数の人格で生きることに慣れていたが、これからは一つの人格としての生き方を学ばなくてはならないのである。
大きなストレスを受けると再分離することも多い。そのために、統合後の治療が必要なのである。
・・・・これは安克昌によるクラフトの7-9の過程についての解説であるが、基本的に事情は同じなのでそのままあげておく。

服部雄一氏について

経歴を見ると本場アメリカでの修業経験もある日本では数少ない多重人格の専門医ということのようだが、個人的にはあまり良い印象を持たなかった。

書いている内容がいかにも直輸入、普及版、日本版の域を出ないと言うのはまあ大目に見るとしても、どうも治療や新しい知見の導入への純粋な動機よりも早めにツバつけて一旗挙げてやろう的な個人的な功名心の方が目について・・・・。
こんな派出派出しい<a href="http://www.sixam.co.jp/shinri/index.htm" target="_blank">個人HP</a>(注・当時のものに対する感想)は持ってるし、何より本書中で自ら認めるようにまだ一人も完全統合に成功していない身で矢継ぎ早に2冊も一般向けの著書を出す図々しさが、しかも2冊目は多重人格者の「真実」だあ?あんたに真実を語る資格があるのか。評論家じゃなくて治療者なんだからせめて一人でも治してから言え。

ま、出版事情は色々なんでしょうが。本人は啓蒙のためだというでしょうし。
でも僕は駄目ですねこの人。仮に僕や僕の大切な人がこの種の不幸に巻きこまれたとして、せっかくの専門医だからすんなり門を叩く気になるかというと・・・・。うーん、こいつのモルモットになるのは嫌だ。医学、特に珍しい病気の治療にはそういう面がつきものだとしても。頑張って自分で良さそうな人を探そう。
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