多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

2004年11月

その他目を引かれた記述

交代無しの他人格の召還

「リディアと話がしたい。リディア、あなたと話がしたいの。わたしはわたしをコントロールしている。完全にコントロールしている。どういうことかわかる?わたしはあなたと話がしたいけれど、わたしがコントロールしているの。あなたが出てくるのを許可します。あなたが出てこられるのは、私が許可した時だけよ。わたしはわたしをコントロールしている・・・・」

・・・・前述した”ジャネット”が自発的に編み出した方法。この後実際に”リディア”(とISH”カレン”)が登場して、両者覚醒したまま会話を交わすのがテープに録音される。


発達早期(の経験)と交代人格発生についてのアリソンの発見・見解

<多重人格性障害>を理解するにつれて、患者はほとんど、片親あるいは両親から望まれないか、またはそんな風に感じてしまう状況に置かれていた経験があるということがわかった。

・・・・胎内での”人生”経験の意味。


交代人格が作られるには時間がかかり、子供が何らかのショックを受けてから最初の分裂を起こすまでには、長い間暴力的な、あるいは放置方の親からの影響ょ受けつづけているのではないかと考えていた。しかし、現在では、出産の瞬間に交代人格が作られる場合もあることがわかってきた。

・・・・ホントか?(補足:胎内で”人生”が既に始まっているとすれば、そこでの「経験」の帰結としてこういうこともあるのかもしれない。)

あるケースでは、<ISH>の話によれば、患者の心はきわめて精神的能力が強かったゆえに、誕生の瞬間に二つの平行した人格に分裂したという。二つの人格は協力しあって機能し、並外れた形で生を共有してきた。

・・・・マジで?


「ポップアップ」現象

・・・・一応専門用語のよう。患者が極度に混乱、動揺している時に不随意に起きる。

次の日、キャリーが会いに来た。だが、彼女自身はいなくて「他の全員」がいた。彼女は次から次へと交代人格を切り替えた。まるで早送りの映画を見ているようだった。絶えず顔が変わりつづけ、誰と話しているのかわからなかった。


統合に際しての身体症状

「今週は地獄のような苦しみでした。頭の左側が猛烈に痛んで、身体が傾いていました。」
「今、脳の中に不快な感覚があります。」
・・・・前出の”ヨランダ”の報告。興味深いがどの程度の一般性があるのか、どういう生理的プロセスと関係しているのか今のところ僕には分からない。


[結語]

アリソンには他にも(多重)人格の構造やこの障害に関するいくつかの独自の理論があるが、独自過ぎて重要性の判断が難しいので今回は取り上げない。
この本を皮切りに色々と勉強して、その後知恵で時折批判めいたことも書いたが、尊敬に値する人物が書いた感動的な本であるのは間違いないように思う。

「統合」のプロセスについて/考察

書き方にもよるのかもしれないが、基本的にアリソンの事例はどれもやけに鮮やかだ。統合の「瞬間」をくっきり切り取る描写など他の本では見たことがないし、何よりもほとんどの場合統合のプロセスとは糠喜びと落胆の繰り返しで、いったいいつ統合に成功していたのか果たしてこれを完全に統合された姿と信じていいのか、最後の最後まで医者も患者も疑心暗鬼の生煮えでうろうろしているというのがむしろリアルな姿に見える。

まあ万事孤高のラルフ・アリソンだから、要は腕が違う、人間の出来が違う、そこらの事例といっしょにしてもらっては困るという反論も特には否定しないが。 

ヨランダの例で言えば統合の主体であり最大の受益者であるオリジナルでも、元から我欲の無いISHでもない()つきの”ヨランダ”の、自らの死を何らか意味する<統合>への積極性、勇敢さ、悲愴な覚悟には感銘を覚えると共に、よく説得出来たものだなともっとドロドロメソメソした他の医者の患者の例を思い浮かべて不思議な気持ちもする。

可能性としては本書には特に書いてないが、この”ヨランダ”はオリジナルそのものではなくてもオリジナルとかなり近い、早くに引きこもったオリジナルの可能態/大人版のような人格で、理論的にだけでなく実感として本来自分は<オリジナル>と一体の存在であることを強く感じられる人格なのかもしれない。まあ完全な推測。


カーラの例についてはまず単純にこの戦いに負けてしまったらどうなってたのだろうという疑問が湧く。というのはアリソン自身も定式化しているように(後日)、統合治療はたいていまずほとんどの患者に存在する恐らくは人格分裂の原因を作った虐待者・攻撃者への怒りや憎悪に由来する、あるいは攻撃者を内面化した結果としての、アリソン風に言えば<悪の交代人格>の力を少しずつ削ぐところから始まるからだ。そうして差し迫った危険を無くした上で一つ一つ人格が多重化した原因を取り除いて行き、全体性の再構築に取り掛かる。

その場合最終的に問題になるのは特段”悪”ではないそれぞれの交代人格の無理解や自己保存欲であり、グズグズウダウダはしてもこんなノるかソるかのハルマゲドンみたいな事態にはまずならない。というかしないはず。アリソン自身は「ハルマゲドン」敗北後の<負の人格統合>の可能性についても「理解しておかなければならない」と不吉なことを書いているが・・・・。(ちなみに幸いにして経験はないらしい。)

ここでも僕なりの推測を述べておくと、実際には暴力的で否定的な人格(”迫害者人格”という言い方が一般的)は必ずしも最初から目立って大暴れするとは限らず、先の「地獄の怪物」ではないが人格構造の奥の方で鳴りを潜めていることもままある。後で取り上げるサラ・E・オルソンの例のように、一種の人格グループ内の自治機構が協力して封じ込めていたりすることもあるようだ。

そういうケースではとりあえず目に見えるトラウマや問題を処理して人格構造が整理されて統合が進んで行くと、むしろそれによって隠れていたそういう人格が出て来やすくなったり統合過程の終盤になってやっとセラピストがその存在に気付いたりということが起きる。そうして最後に残った最大の問題人格(ラスボス?)とそれまでの治療で力を蓄えて態勢の整ったオリジナル人格の最終決戦、それが上のカーラの例なのかもしれない。

これは多分それなりに確度の高い推測だと思うが、それにしても2例しかあげていない統合の具体例(注)の一つとしてカーラのような例をあげるのはちょっと問題があるというか要はアリソンの趣味なのではないかと、そんな気がしないでもない。いずれにしてもアリソンの症例というのは非常に物語性が豊かで、アリソンがそう導いているのか、そういう医者にはそういう患者が集まるのか。

(注)
後で確認したところ、アリソンは少なくともあと一例、「エニッド」という患者の詳細な統合例をあげていたので訂正しておく。
ちなみにこの患者も、「カーラ」同様統合間際にかなりの物理的危険や敗北の可能性を感じさせるような迫害者人格との激烈な闘争を演じて見せている。

「統合」のプロセスについて/抜粋

多重人格治療のプロセス全体(後日)から、特に統合前後のドラマについての記述。 

抜粋1
患者は自分で<統合>が近づいているのが分かる場合が多い。
成人の患者の場合、身体を支配しているのが<オリジナル人格>でない場合にはとくによくわかるようだ。
(解説)「オリジナル」人格と「ホスト」人格 ・・・・必須の基礎知識。

「オリジナル」というのは出産時か受胎時か受胎3ヶ月時か、とにかく遡れる限り最初期のアイデンティティを持っている人格。そういう意味では”本来の”自分。それに対して「ホスト」というのは起源はどうあれ現に外に出て身体を支配し、社会的な活動をしているつまり他人が(しばしば自分も)その人そのものだと認識している/する人格。アイデンティティではなく機能により定義される概念。

言ってみれば”元祖”と”本家”であるが、この2つは往々にして一致しない。なぜなら定説によれば典型的な多重人格(障害)は激しいストレス体験に「オリジナル」が耐えられない時、これに対処するために交代人格・別人格が形成されることにより生じるのであるから、「オリジナル」は嵐の過ぎた後戻ってまた「ホスト」として人生を継続することもあれば、傷付いてそのまま心の奥深く引きこもって交代人格がその後を引き継ぐ(引き継がざるを得ない)こともよくあることだからだ。この場合その人格は「ホスト」ではあるが「オリジナル」ではない。

なお通常統合治療はそれが長年ホストとして機能していたかいないかにかかわらず、オリジナルに他の人格を統合して恒久的にホスト化するという方向で行われる。


抜粋2 患者”ヨランダ”の統合前夜

(注:このヨランダはオリジナルの戸籍名そのままで長年ホストとして生きて来たが、オリジナルではない。) 
治療がすすみ<統合>が近づくと、彼女はそれを複雑な思いで待っていた。<統合>しなければ精神的に健全になれないことはわかっていた。しかし<統合>すれば、新しい誰かになってしまう。彼女は、それが自分の「死」を意味することにも気付いていた。

彼女は<統合>が近づいた時、自分の家にいた。そして部屋にテープレコーダーを持ち込み、座って話し始めた。

「わたしは変化しようとしています。わたしは同じ人間ではいられない。」

「時間が来たわ。悲しみはありません。悲しみではなく、恐れ・・・・、知らないものに対する恐れです。」

「だけどわたしは喜んでこれをやるわ。”一つ”になるために必要だというなら右腕を切り落としたっていい。」

ヨランダの声は疲れていた。話はとりとめもなくあちこちに飛んだ。非常に弱々しく、死の床にいる病人が話しているように聞こえた。あと数時間で「彼女」は思い出に過ぎなくなる。

「わたしはいろいろな意味で成長しました。わたしは六歳でも七歳でもない、八歳でも九歳でもない。わたしはその全部の齢です。」

ヨランダが「さよなら」を言うのを聞いて、テープが終わるのだなと思った。だが、しばらくしてまたヨランダの声が聞こえた。

「アリソン先生、行ってしまう前に言わなくてはならないことがたくさんあります。(中略)今でも先生に教え導いてほしいと願っています。わたしは学びたい。もう会えないかと思うと寂しい。でも、わたしはもうすぐ一つになる。一つになって先生と会える。」

ヨランダの<統合>は静かに起きたらしい。死と再生は穏やかに起こった。少なくとも心の中で激しい苦闘や叫びがあったとしても、隣人たちにはわからなかったようだ。


抜粋3 患者”カーラ”の統合
ヨランダの体験はわたしが出会った中では典型的なものではない。他の患者たちは激しい苦闘を経験しているものも多い。

彼女(カーラ)の<統合>は劇的でスリルに満ち、死ぬほどの苦しい戦いとなった。すべては彼女の頭の中で行われたのだが。以下の「苦闘」の描写は、その時点で観察したものと、「一人」になったカーラが後日に思い出してくれたものだ。

カーラは広い戦場を見た。<オリジナル人格>と暴力的な<悪の交代人格>が、全身を鎧で覆って対決し、生命を懸けた戦いをはじめようとしていた。二人とも相手の喉元を引き裂こうとしていたが、「アナ」と「ゾーイ」が二人を引き離している。

この患者は何年にも渡って三〇から五〇の交代人格を出現させてきた。その人格たちが監査役のようにずらっと並んで見ている。
・・・・これはむしろ「内部世界の視覚化」の華々しい例として目を引くものかも。明らかに想像力のありようによって具体的な形態にかなりの可塑性があるのが窺える。全交代人格の注視するアリーナ!何とドラマチックな。
この後二人は頭の中で生きるか死ぬかの激しい戦いを繰り広げ、現実でも自分の喉を締めようとしたり転げ回ったりと大騒ぎを演じ、Dr.アリソン以下見守る数人が致命的な負傷を防ぐためにそのたび物を片付けたり気を配った。勿論結果は<オリジナル人格>の勝利。

内部世界

内部世界の視覚化

多重人格者の(頭の)中の「人格」たちは、彼らの”住んでいる”世界をどのように視覚化、イメージ化して認識しているのか。
概ね共通する点と、(恐らくは)それぞれの患者・人格の想像力の癖によって変わって来る点、随時例示して行く。

例1 :患者”シルヴィア”の交代人格”リーン”の場合
「私が行った最初の場所は入り口のすぐ近くだ。”待合室”のようなものと考えてもよい。交代人格は出入りをする時、この場所で”待たされる”。私はすばやくそこを通り抜けるが、他の人格は数秒かかると言っている。(中略)誰か待っている人がいれば交代は瞬時に行われる。」

「誰かが待ちきれなくて無理に出ようとすると額の上の方に痛みのような感覚が生じ、それは移動して目の痛みとなる。この感覚は偏頭痛の軽いものに似ている。身体をコントロールしている人格は、誰かが無理に出ようとするとこの痛みを感じる。」

「この場所の色は、壁の染みのように交じり合った色だ。大きい染みや小さい染みがある。」
(解説)
”待合室”の存在や、そこで混乱が生じた時の(外に出て生活している)人格が感じる局部的頭痛はほとんどのケースで報告されている。

「さらに頭の高いところへ進むと、色は純粋になり、明るくなる。(中略)色は青と黄色で、赤が少々入っている。」
「私にとってそこは瞑想の場所だ。そこに行くと安全で保護されているという感じを受ける。そこから出てくる時、誰でも幸せで昂揚した気分になっている。」

「後頭部は、茶色と黒を混ぜたような暗い褐色だ。」
「空中に巨大な物が浮かんでいる。大きくギザギザして角が尖った岩のように見える。身を隠したいと思ったらこの場所が最適だ。」
「そこに行くとぞっとする。見えない何かがこちらを見つめているような気がするからだ。窮屈で息が詰まるような感じだ。」

「いつまでもそこにいたいと感じる場所がある。そこは明るくて清潔だ。(中略)比較的広く、私たち全員が入ってもまだ余裕がある。」
「まわりの色は柔らかく、明るい色合いの緑と赤と茶色と金色で、まわりの全てが溶け込み、ゆるやかに変化している。」

「私たちはみな自分の”地獄”を持っている。シルヴィアの心の奥深くに入った時にそれを見た。悪い考えや記憶、悪い出来事、憎しみや怒りなどの押し殺された感情が、隠されて、あからさまに、おぞましい怪物の姿となってそこにある。」
「怪物は黒くて大きい。何かのエネルギーによってかき乱される時以外はたいていじっと動かずにいる。」
「そこにいた時、体が重くなり棘で覆われているような感じがした。怪物とあまり長く接していると簡単に彼らの仲間になってしまう。」
(解説?)
いかにもアリソンの患者らしく、非常に宗教的なイメージである。知る限り一般的なものではない。
・・・・ただし締めの部分で”リーン”はこう書き添えている。「私はこのようなことを書くのは許されていなかった。一部は内密の話だ」。また「二十人の患者に同じ質問をすれば二十の違った答えが返ってくるだろう」とも。

視覚化とは少し違うが、内部世界の他の空間的側面について同様に”リーン”の報告。
「移動の方法も変わっている。自分のエネルギーの流れやまわりのエネルギーに運ばれてある場所から他の場所へ移動する。」
「簡単に移動出来ることもあれば苦労する時もある。外にいる人格がエネルギーを沢山使ったりストレスを受けていたりすると、移動は滝を遡ろうとするようなものだ。ストレスのない状態では楽に移動できる。」
「感覚や感情といったこだわるものがない時には、私たちはいつもあちこち漂っている。」
(解説)
何ともコメントのしようがないが、いずれにしても後で述べる「共在意識」のありようや統合プロセスの進捗具合によって、同じ患者の中でもこうした空間的表象は大きく変わって来ると思われる。隔たりが大きければ大きいように、小さければ小さいように表象される。この時点で既にシルヴィアの内部世界はかなり安定した秩序を持っていたのではないかと印象的には感じられるが、特には記述はない。


人格どうしのコミュニケーション

これも共通点と相違点、両方が見られるので随時例示して行く。まずは再び”リーン”の報告から。

例1 :患者”シルヴィア”の交代人格”リーン”の場合
「私たちの間のコミュニケーションは、遠くに離れていても溶け合い、”話し合う”ことができる。」
「個別的なコミュニケーションの時は邪魔が入らないようにまわりを覆って溶け合う方法を選ぶ。こうすると、私たちは一つの存在として行動できる。」
・・・・しばしば多重人格群の中で形成される”党派”的なものの具体的ツールの候補として、後段の報告内容は興味深い。

「たいていはこのやり方だが、感情の波をやりとりすることもできる。」

「私たちが言葉で会話できることを思い出してほしい。」
・・・・人格どうしの”膝詰め談判”は多重人格エピソードの名物風景である。
・・・・よく外に出ている人格が中のどれかの人格に呼びかけて、その結果見つかったり見つからなかったりしている時はどちらを使っているのだろうか。
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