多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

2004年10月

”ISH”について/考察(2)

以上が僕が考えるアリソン流ないしは本来のISH概念と汎用化したそれとを区別する大きなポイントだが、ではなぜ僕はこの区別にこだわるのか。それはアリソン流のISHと一般的なISHでは、臨床的に期待される役割は基本的に同じでも、全体の風景が全く違って見えて来るからだ。

つまりアリソンのISHが存在する世界では、いずれにしろ統合の道には幾多の困難が待ち受け、現実的には失敗の可能性が少なからずあることは覚悟しなくてはならないにしても、何が正しい道なのかを完全に知っていて無私な態度でその達成に協力してくれる存在を頼りにすることが出来る。またはその背後に言わば「神の恩寵」に満たされた完成された秩序が予感される。非常に性善説的で予定調和的な世界観である。仮に今回失敗しても当然の連想として”死後の救い”のようなものも期待されるだろう。

しかし頼りにすべき”ISH”が上記の「アーサー」程度の存在でしかない場合はそうはいかない。彼らはまともに精神分析などしていたら何年かかるか分からない患者の人生に関する情報を一気に、かつかなりの確度で与えてくれ、しばしば治療方針そのものの確立さえ助けてくれるが、所詮はただの頭脳明晰で内部事情に通じた(何せ文字通り”内部”にいるのであるから)一人の人間ないしは人格でしかない。事実の誤認や解釈の歪みは避け難く混じって来るだろうし、何か超自然的な力の関与が事態を最終的に収拾してくれるだろう的な期待を抱くことも出来ない。彼らが知的であればあるほど逆に、科学と精神医学の容赦無い技術戦とそこにおける敗北の可能性のただ中に当事者たちは取り残される。

どちらが正しいなどということは僕には言う資格も必要性も無い。あえて言えば両方が正しいのだろうと思っている。アリソンにはアリソンという特異な個人に相応しいISHが見え、あるいは現れたのであり、そうでない人にはそうでないような形でのみISHらしき人格が見出された。あるいはそういう当たり障りのないタイプのISHのみが報告された。そういうことなのではないか。
アリソンにはアリソンの過剰な期待やナイーヴさが、そうでない人にはISHがアリソン的な現れ方をすることを許さないような視野や態度の限定性という問題があるのかもしれない。少なくとも僕がアリソン的なISHであったら、そこらのチンケな精神科医の前になど姿を現してはやらない(笑)。大人しく処方箋でも書いてろと話の分かりそうな奴が出て来るまで鼻毛でも抜いている。

とにかくそういう訳で既に確立した共通言語としての”ISH”という概念の価値は価値として認めるにしても、僕としてはアリソン的なISHのみをその語で呼び、それ以外のちょっと気の利いた人格程度のものとは区別したい気持ちが強くある。
治療の実際の問題としては特に上の1で述べた「全知」性、つまりその提供する情報が直接的な記憶によるものなのか推測や伝聞でつぎはぎされたものなのかというのは、場合によっては大きな違いになることもある気がする。勿論2の問題、彼らの語る認識が個性という名の偏見や自己保存の打算によって歪められていないかにも、常に警戒が必要であろう。

”ISH”について/考察(1)

”抜粋6(1)”でギャッ!と放り出してしまった人も多いと思う(笑)。いかにも宗教的なヴィジョンである。
ただそのこと自体、増してやその「真偽」について僕ごときが何か述べるつもりは毛頭ない。ここで考察したいのはあくまで精神医学上の概念としてのISH(Inner Self Helper)の、提唱者ラルフ・アリソンとその後である。 
僕の見た限り、上は本職の精神科医から下は2ちゃんの解離性同一性障害関係のスレッドまで、また多重人格/解離性同一性障害に対してその治療者がどのような立場を取ろうとも、少なくともそういう障害の実在を認めている(認めていない人もまだまだいる)人ならばあまねくこの概念に親しみ、共通言語として使用しているようだ。ただその意味内容には一定のばらつきがあり、特に開祖ラルフ・アリソンの意図を忠実に解釈しようとすると少なからず首を傾げたくなるような使い方も多く目に付く。

簡単に言うと今日ISHという概念は、多重人格者の内部に存在する多くは知的で理解力があり、治療者の助けとなるような人格一般に比較的緩い意味で使われているようだ。場合によっては単に知的で人格群のリーダー的な人格、あるいは時に自殺や自傷行為に走ったりもする、苦悩するオリジナルやその他の人格に対して保護的に振る舞う人格もそう呼ばれたりする。

なるほど確かにそうした人格は内部に存在し(Inner)、患者自身(Self)を助ける人格(Helper)であるわけだから、逐語的には間違いではないのかも知れない。くだんの若い精神科医のようにラルフ・アリソン個人への特段の敬意も無いまま、それでも何らかそうした存在、概念の有効性が広く認められて話が通じるという状況は、逆にある意味ひどく提唱者冥利に尽きるとも言える。ただそれでも僕としては今一度、この非常にインスピレーション豊富な概念の本義を問い直したい衝動に駆られる部分がある。


先に結論的に、僕の読解によるアリソン版ISHの特徴、もしくは本来の意味をまとめてみるとそれは大きく以下の2つの点にあるように思う。
1.それらは「全知」の存在である。
2.それらは完全に非個人的、非感情的存在である。

1は別に森羅万象神の如く知るということではなくて、その患者の生誕(時に受胎)から人格分裂も含む発達の全プロセスを、伝聞や調査によるのではなく直接的に知っているということである。
例えば有名なビリー・ミリガンの24の人格の一つで、担当医師にISHであると名指しされていた「アーサー」は、いかにして人格間の記憶の欠落を埋めているのかと聞かれて「(他の人格の記憶を元にした)演繹法です」と答えている。後にビリーには<教師>といういかにもそれ風な人格が現れて自らの直接的な記憶によってアーサーにも知り得なかった人生遍歴の実際を示してくれるのだが、とにかくここでのミリガンの担当医師の用法はアリソン流のそれには厳密には当てはまらない。

2はアリソンが繰り返し「単なる交代人格の一つではなく、独立した存在である」と強調していることだが、僕流に言い換えると彼らは積極的個性や個人的欲望を持たず、自ら固有の人格として現実世界で生きようとしたり多重人格につきものの人格間の主導権争いや政治に関与したりはしないということである。
再びアーサーを例に採ると、彼は確かに基本的に常にビリーの人格グループ全体の調和や幸福を図り、自ら定めたルールは厳格に適用しようとする公平無私に近い人格だが、実はそれは「気取り屋で仕切り屋のイギリス人」アーサーの個性であり、好みでもあるのだ。だから時に彼は実害というよりは好き嫌いである人格の行為を裁いたり、人格全体が気に添わない状況に置かれると拗ねて引きこもったりもする。

2に関して更に重要かもしれないのが、前述のイアン・ハッキングの伝える「ISHは駆け引きをする」という、アリソン以外のセラピストには一般的らしい経験である。つまり確かにセラピーに大いに有用な協力者的人格は広く見られるが、それらは多くの場合自身のエゴでもってセラピストと向き合い、戦略的に情報を提示してセラピストを操ろうとし、時には人格全体というよりは自分個人の身の上への配慮に務めたりもする。決してアリソンが描写するような守護天使的人格ばかりではないらしいのだ。

(つづく)

”ISH”(Inner Self Helper)について/抜粋

抜粋1 患者ジャネットのISH”カレン”の登場 ・・・・ISHの基本的性格と役割。

「聞いて」と、後にカレンと呼ぶことになる声は言った。
「私は、あなた(ジャネット)を助けようとしている。ずっとあなたを助けようとして来た。」

「私はあなたの知らないことをすべて知っている。どうすればリディア(ジャネットの悪しき交代人格)を追い払えるか、私は知っている。」

「私はあなたの唯一の希望(中略)。私は強いから。私は強い。」

(なぜジャネットの知らないところでDr.アリソンに電話をかけたかについて)
「もしアリソン先生が知れば(中略)、あなたをもっとよく助けられるから。あなたが勝つのを、リディアに勝つのを助けることができるようになるから。」

抜粋2 ISHカレンとオリジナル人格ジャネットとの関係

「私は強い。だけど、あなたに信頼されなければならない。私たち、あなたと私が、リディアを永久に消してしまうためには、あなたに信頼されなければならない。」

「私はとても強い。その強さをあなた自身が望まなければならない。私を外に出させて、お願い。」
「ええ・・・・・、いいわ・・・・・、けど、アリソン先生と話をしてる時に出てきてくれない?どうやったら、あなたの好きな時にあなたに出てきてもらうことができるの?」
「ジャネット、私はリディアと同じやり方はしないの。自分を押し付けたりはしない。これは、あなたが望まなければならないことなのだから。自分でそうしたいと望まなければならない。(中略)私はいつでも出てくる、ジャネット。あなたがそうさせてくれれば。」

抜粋3 ”カレン”の心理テスト

このテストはどういう性質の人物であるかを知るためのものだ。(中略)
テスト結果は、カレンが完璧な人間(完璧に欠点のない人間)だということを示していた。通常の人間ではこんなことは不可能なので、テストの点数をつけた精神科医は、彼女が欠点を隠そうとしているのだと判断した。

抜粋4 ある(別の患者の)ISHの説明

「私はたくさんの働きをしています。私は良心です。必要があれば罰を与える者ともなります。教師であり、疑問への回答者です。」

「私は将来の彼女の姿ですが、完全に同じものではありません。彼女は感情の表現手段を持っていますが、それは私には必要のないものです。将来の彼女は私の論理的思考能力と、物事を客観視する能力を持つことになります。」

抜粋5 アリソン自身の説明

正常な(つまり人格分裂していない)人間では、これは個人の最善の部分????「良心」あるいは「超自我」と呼ばれる部分だ。

セラピストは多重人格者の中からこの存在を呼び出すことができ、治療のために助けてもらうことができる存在なのだということを理解しておいてもらいたい。

(抜粋4を承けて)
これは正しいのか?わたしにしわからない。(中略)ただ確実なのは、どの患者の<ISH>も、このような発言内容は一致していてそれだけは信頼性があるということだ。

抜粋6 ISHの存在論(1)

これ(ISH)は交代人格というより、独立の存在であるとわたしは考えている。

一人の人間の中に<ISH>が六つ存在しているのに会ったことがある。それぞれがまぎれもなく<ISH>で、はっきりした上下の階級があった。最下級の<ISH>はセラピーのとき最初に現われ、最後にはオリジナル人格に統合された。もっと高位の<ISH>は統合されないように思える。彼らはオリジナル人格の霊的な指導者として存在しつづける。患者が統合されて一人の人格となった後でも、心の中に別の存在として残りつづける。

抜粋7 ISHの存在論(2)

「そうなっても(人格統合後も)私はずっとここにいて、ただ独立といっても、あなた方普通の人と同じように、ごく細い線で全体と区切られているだけです。」

「もし私がいなくなれば、彼女には身体しか残りません。私を一部だけ残して取り除くこともできるでしょう。しかし私を全て取り除いてしまえば、彼女は抜け殻になります。」
(抜粋4の<ISH>の言。)

総評 (共)著者ラルフ・アリソンについて

先駆者にして異端者。多重人格界のユング?

アメリカの精神科医として最も早い時期から「多重人格」という独立した精神障害の存在を認め、治療に関わった一人。そして多くの多重人格者の内部に存在する、セラピストに協力して治療を助ける守護者的人格”Inner Self Helper”(以下ISH)概念を定式化し、後の多重人格治療の大きな指針・共通言語を提供する。

一方でその自らが見出したISH人格たちとの見ようによっては”教祖と司祭”的な緊密な結び付きや、人格たちが語る心的世界に関する宗教的とも言えるイメージへの屈託の無い信頼の表現から、その治療実績には十分な敬意を払われつつもある種”イッてしまった人”として異端視されている部分もあるよう。治療上必要と認めればエクソシズム(悪魔祓い)の真似事なども恐れず実行し、活動の初期においてはそれが元で深刻な職業上の危機に見舞われかけたことが本書にも書かれている。

ある時期国際学会の主導などもしたが、その後巻き起こったアメリカにおけるブームとも言える多重人格”運動”の勃興やそれに対抗するように出て来た「虚偽記憶症候群」一派の反・多重人格運動、また精神医学界内部における「多重人格」から「解離性同一性障害」への公式診断名の変更をめぐる論争などからは距離をとり、そういう意味でも現在は孤立した存在になっているらしい。(ちなみに僕がネット上で少し議論した日本人の若い精神科医は、この本を読んでいなかった。)


あれやこれや印象としてはあくまでセラピスト、職人気質の現場の人で、”ISH”という重要な理論的貢献をしてはいても理論家・学者としての性格、エゴはほとんど持っていない。そのため決して「難解な」タイプの文章ではないのだが、たまに余りにも物言いがストレートで果たしてそのままの意味で受け取っていいものか悩んだり、また体系的整理の効率からするといかにも無雑作に概念が作っては放り出されている為に相互の関係が見えずに理解に困難を覚えることがある。ちょっと思い出したのはユングの文章だったりするのだが。

上でも述べたようにユング同様アリソンも時に神秘主義者的な扱いを受けることがあるが、後日取り上げるイアン・ハッキングの学史的良著「多重人格と心のメカニズム」によると実際アリソン本人が神智学(ロシアのブラヴァツキー夫人が創始した近代ヨーロッパの代表的な神秘主義運動。キリスト教を軸としつつも古今東西のほとんどあらゆる神秘・宗教思想を一つの流れの中に融和的に位置付けようとした。)への理論的依拠を明言していたそうだから、無罪とはとても言えないかもしれない。

ただそうした”裏事情”はとりあえず置いて虚心にこの本を読めば、浮かび上がって来るのは患者の苦痛を取り去る為には自分の学者的こだわりや職業的エゴをいとも簡単に棚上げ出来る誠実でフットワークの軽い信頼出来るセラピストの姿であり、またひいては患者やその障害に代表される自分の外からやって来る「経験」や「世界」に対して極度にオープンなある意味非常にタフで尊敬に足る人物の姿である。別の言い方をすると彼は瑣末な理論知の干渉の到底及ばない豊かで深い感情を伴う経験・直観を味わって「しまう」タイプの人であり、それがアリソンの学説を通常の学者的配慮を大きく逸脱したものに否応無くしてしまう。

だから結局アリソンの「理論」というのはアリソンその人なのであり、基本的には彼を尊敬し彼を引き継ごうとした多くの後継者たちが、次第に彼の概念を意識的無意識的に脱色・中性化してやがては距離を取るようになるのは無理のないことなのかもしれない。本当にアリソン理論を使えるのはラルフ・アリソンただ一人なのだ。
ここらへんは例えば「元型」や「集合的無意識」についてユング本人が書いたものと、後の”ユング派”と称する人たちの文章とを読み比べる時の僕の違和感と再び重なる。あれ?こんな薄い話だったかな。俺の知ってるのとなんか違う。

・・・・まあユングほどの天才でも気○いでもないとは思いますが。アメリカのそっち系の人らしく、単に悪ノリ、脳天気と感じることもままあります。そういう人の本です。

”多重人格ノート”

多重人格障害(解離性同一性障害)に関連する書籍の読書録です。
同系統の本を立て続けに結構読んだので、読みっぱなしもなんなので形にしておくことにしました。ただ一応の読者を想定しないと書き難いのと、怠惰の虫が騒ぎ出すのを防ぐために(笑)この場を利用して公開させていただくことにします。

構成としては全体の要約ではなく、僕が特に関心をひかれた箇所の抜粋を提示するという形でまず内容を紹介し、その後でそれに対する僕なりの考察ないしは解説が続くというものにします。

では暇な人、関心を共有する人はどうぞ。
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