多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

哲学者の見る多重人格:現代編2

・・・・”16.心と身体”の(3)

スティーヴン・ブロード『一人称多数....多重人格と心の哲学』

根底に存在する単一の自己という観念を、デネットが心の底から否定したのに対し、ブロードは、そうした実体の必然性を固く信じていた。」


「多重人格の存在そのものが、形而上学的魂だとか、必然的に統一された自己だとか、超越的なエゴといった観念とは、矛盾するに違いない(ように見える)。」

「しかし、ブロードの議論は逆である。彼は、多重人格という現象そのものが、その多重性の下での統一を要求しているのだ、と主張する。(中略)ブロードは、超越的なエゴが存在するに違いないという結論を下す。」



「ブロードは、根底にある自己というものが存在すると考えているが、この観念を示すもっとも明白なモデルは否定する。」

「発見されるのを待っている
真の個人、つまりずっと前から存在していて、治療の中で明らかにされる、真の個人というものが存在とする考え(をブロードは否定する)

「初期のアメリカの記録者たち(中略)は、
本当の人格について、何らかの理念を持っていたようである。どの交代人格が、真のミス・ビーチャムなのか?彼女を育てよ、そして彼女が発見されたならば、それ以外のものには出て行くように命じよ

「これを踏まえてブロードは、分裂を起こして矯正を必要としているような、
本来の個人というものがあるはずだ、と論じている。」
(アト注)つまり”本当の人格”が隠れているのではなく、”本来の個人”が損なわれているのだという考え。


「真の自己ではなく、あらゆる自己の中心となる核が存在するというブロードの主張は、一人の人間が持つ複数の交代人格は、共通した基本的技能を持っているという観察から始まっている。それらは歩いたり、道路を横断したり、靴紐を結ぶことができる。それぞれの状態のときに、多大な再学習を要するようなまれな多重人格者ですら、普通の技能はほぼすべて保持している。」

「とすれば、交代人格どうしの持つ共通の技術に説明をつけ、共在意識を持った交代人格が相互に影響し合うことを可能にする、
基質のようなものが存在するに違いない。」

哲学者の見る多重人格:現代編1

・・・・”16.心と身体”の(2) 


ダニエル・デネット『説明された意識』

解明される意識
ダニエル・C. デネット
青土社
1997-12-01


「この二人(精神科医ニコラス・ハンフリーと哲学者デネット)は、臨床家とクライエントの多重社会を調査し、その共同研究は、大きな論議を読んだ『自ら語る』という論文へと発展した。
彼らは、個々のシロアリがバラバラに何かをしているときであっても、シロアリのコロニーは、全体としては単一の目的下に行動をしているように見える様子を観察した。その要点は、集合的な作用のように見えるものは、指導をする統制者を
(必ずしも)必要としないということである。」

「ハンフリーとデネットはこの事実を使って、個人とは何かということについての、部分的なモデルを示している....個人とは、多くの構成部分からなる存在だ、と。」



”大統領””国家”という比喩

デネット/ハンフリー
「彼らは類似例を提供する、すなわち、他ならぬ合衆国である。われわれはアメリカの特徴を語るとき、そのがむしゃらさ、ヴェトナムの記憶、永遠の若さという幻想を口にする。しかし、こうした特質を統合する、支配的実体は存在しない。『
<ミスターアメリカ的自己>というようなものは存在しないが、地上のすべての国には、事実上<国家の首長>が存在する』という。」

「アメリカ大統領は国家の
価値観を代表し、それを説き、そして『他の国家との交渉という事態になった場合は、スポークスマン』になるものと期待されている。」


ホワイトヘッド
「興味深い偶然の一致ではあるが、ホワイトヘッドも、似たような比喩を使っている。個人となるためには統一的な支配が必要だという点に注目した彼は、『これら他の現実を統括している、
別の知性(米国市民すべての上にいるアンクル・サムのようなもの)を要求してはならないのは明らかだ』と書いた。」



結論

「それにもかかわらず、他人との関係の持ち方を含め、さまざまな点で決定的に重要な構成部分を一つだけ持つことも可能である。大統領との類似の話からすれば、それは、構成部分の集合体の観点の主席代表のようなものである。」


(アト注)
要するに
赤字で示されている部分が対外的に統一性を要求されるいわゆる「自分/人格」であり、ひいては通常われわれが統一的な感覚を持って「自分」と感じている部分。
一方で
青字で示されている部分はわれわれが時に幻想する「本当の自分」、あるいはある種の神秘思想が策定する「超越的な自己」であるか。

「こうした類推から、多重人格についての新しい考え方が示唆される。構成部分は、交互に代表になるわけだが、構成部分が作り上げている組織全体にある、様々な考えをめぐって、代表または、大統領としてうまく機能する部分もあれば、うまく機能しない部分もあるという考え方だ。」


(アト注)
つまりうまく機能”しない”部分が代表の座に就くと、あるいは代表の座をめぐっての内部の「政治」に混乱が起きると、『障害』としての多重人格が発生するということ。

哲学者の見る多重人格:古典編

・・・・”16.心と身体”の(1)

ウィリアム・ジェイムズ『心理学原論』

「彼女を催眠トランスへと入り込ませることによって、彼女の押え込まれた感受性と記憶を取り戻す時....言い換えれば、”解離”(多重化)し、断絶された状況から感受性と記憶を救い出し、他方の感受性と記憶をつなぎあわせるとき」に、彼女は違う個人になると、ジェイムズは言う。

(アト注)
分かり難いがつまり、『つなぎあわせる』前の解離/多重化した”個人”もそれはそれで立派な”個人”だということを、この心理学の始祖的権威である哲学者も認めているという話。


「ただし、ここで言う『個人』には、何ら哲学的な重みがあるわけではない。違う個人とは言っても、これは、あいつは酒を二、三杯飲むと、別人になってしまうという程度の意味だ。」

「彼は、交代的人格を『現在の段階では回答の出せない問題』へと繋がる現象として記録した。ジェイムズは交代的人格からは、いかなる哲学的推論をも導き出さなかったのである。」



ホワイトヘッド『過程と実在』

「ホワイトヘッドの見方によると、われわれが実体として普通に考えているそれぞれの事物が、社会である。(例えば)電子は、電子の契機の社会である。(中略)この(”多重性”という)論法でいくと、いかなる有機体も社会になる。」

(アト注)
つまりこの世に存在している全てのものは、それぞれがそれぞれのレベルで独立したシステムとして(多重に)存在している。


「しかし、人間は特別である。『より高度な動物の場合には、中心的な方向が存在することにより、動物の身体それぞれが、生きている人格、または生きている複数の人格を含むことが示唆される。われわれ自身の自意識とは、それらの人格を直接に知ることである。』」

(アト注)
人間を筆頭とする高度な動物は、例えば”人格”のような本来個別的並列的な諸システムを一定の方向に階層化したり統制したりして存在し、それら全体を意識しようとする働きを有している。


「(承前)『そうした統一的支配に限界があることは、人格の解離、連続的な交代を起こす多重人格、更には強迫をともなう多重によって明示されている。』」

「ホワイトヘッドの観点からすると、多重人格はごく簡単に発生する。(中略)『
”説明しなければならないのは、人格の解離ではなく、統一的支配である”』」

(アト注)
後段部分はまず頭に置いておかなくてはならない大テーゼ。言い換えると解離が不思議なのではなくて、統一が不思議/不自然/不可能なのである。


ここまでが前提となる古典的(古くて間違っているという意味ではない)認識。

15.記憶政治学(2)

・・・・要するになぜ記憶は重要なのか。(重要になったのか)

「記憶の政治学とは、何よりもまず、秘密に関する政治学、つまり、奇妙なフラッシュバックがありさえすれば、何か記念碑的なものに変わり得るような忘れられた出来事に関する政治学なのである。」・・・・記憶の意味付け。


「記憶政治学は何の政治学なのか?(中略)私は、人間の魂の政治学という呼び方が相応しいと思う。」



”魂”の政治学

「魂という観念(中略)は、全人類の普遍的な観念にはなり得ない。(中略)私が、自分のヨーロッパ文化から受け継いできた、歴史的に位置づけられた魂についての考え方のようなものは、他民族には存在しない。」
「結構なことだ。他民族は記憶政治学も、多重人格障害も持ってないのだから。」

(アト注)
いきなり核心的な発言だが、要するに”記憶”とそれに根差した”人格/魂”についての西欧特有の考え方が、”多重人格”という同じく特有の病気を生んでいるという主張。


「魂についてのヨーロッパ的な観念は、圧迫感を与えるもので、恐らくは父権的制度の重要な部分であろうとの主張が、何度もなされてきた。」

「魂とは、社会秩序を内面化し、社会の持続に必要な善行と蛮行を自らの中に取り入れる手段だった。(中略)それが、魂という観念の、意図せざる機能だ。」

「西洋社会が分解し始めたまさにそのとき、様々な示威運動
(ハーマンが列挙したような)の中で巻き起こったのは、魂をよみがえらせる大きな論議であり、(中略)魂の科学的な代用品としての、記憶に関する論議が行われるようになったのだ。」



「心理学」と「魂」

「心理学は魂に何を行なったのか?恐らく、心理学は、魂の科学になるという義務を果たす代わりに、実験可能な対象を発明したのだ。」・・・・(実験心理学)(定量分析)


「実験心理学は、初期においては生理学(解剖学)の実験室にならって自己形成を始めたのかもしれないが、その後、統計的な科学(生物学)になったのである。現代的な実験心理学への移行の準備を行なったのは、エビングハウスの記憶実験室だった。」

”解剖学的”から”生物学的”への移行が行なわれたのは、まさに記憶の実験の中だったのだ。」・・・・代用的魂の科学としての生物学的心理学は、記憶を舞台に発達した。



「伝記」・・・・個人記憶による物語

「個人は生物学によってではなく、思い出された伝記によって構成されている。過去の記録をとることが始まった昔から、『人生』は(中略)語られ続けてきた。」
「伝記のイメージはあらゆるところに存在する。(中略)国家はその歴史と同一視される。種は進化の対象となる。魂は、人生を通り抜ける巡礼である。一つの惑星がガイアとみなされる。」


「_すべての人が伝記を持つ、言い換えれば、社会の最底辺にいる人でさえ、伝記を持つのだという(現代的な)発想は、どこから出てきたのだろうか?」

「十九世紀の英国で、トマス・ブリントは、犯罪者の伝記を作って身元確認をすれば、社会は最終的に自衛可能になるということを、さまざまに語っている。」

医学的な症例史(中略)の目的の一つは、(中略)『慰めと分類』であった。しかし、同時に、患者の人生の物語を提供する目的もあった。」
・・・・まとめて、魂の記憶化の例。



結論

「記憶の科学は、科学が公然と語ることができない事柄についての、公開討論との場として働くことができた。魂の科学は存在し得なかった。そこで、記憶の科学が現れたのである。」

「われわれは、近親姦が悪であるかどうかについて、もはや述べることができない。そんなことをすれば、主観的価値観についての話題になるだろう。そうした話をする代わりに、われわれは科学へと移行して、誰が近親姦を思い出すかを尋ねる。」

「記憶についてなら、客観的な科学的な知識は存在し得る....あるいは、そのように、われわれは教え込まれてきたのだ。」

15.記憶政治学(1)

・・・・「記憶」をめぐる権力闘争。

記憶の政治学

「記憶の政治学という話は、比喩ではない。<虚偽記憶症候群財団>と、様々な記憶回復セラピーのグループの間の対立は、まさに政治的なものである。」(第8章参照)


「記憶の政治学には、個人的なもの共同的なものという、二種類のものが存在する。」

「人類学的見地から考えて、
ホロコーストのような集団記憶を、集団のアイデンティティと差異を堅固なものにする方法の一つとみなすことに不都合はないだろう。その見方からすると、ホロコーストの記憶の政治学は、昔からある、人間の営みの一例になっている。」


「これとは対照的に、個人の記憶の政治学は比較的新しい。」

「個人記憶の政治学は、そうした
(十九世紀に現れた様々な記憶の)科学がなかったならば、現れることなどなかったのだ」



ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』

『過去一世紀以上の間に三回、特定の形態の心理的トラウマの特定の形態が、大衆の意識に浮上した。そのたびごとにそうしたトラウマの調査が、政治運動と結びついて盛んになった』


「彼女の挙げた三例とは、ヒステリーと、シェル・ショック、そして性的家庭内暴力である。」

「ハーマンが挙げた三つの政治運動(
フランス共和性反戦運動、そしてフェミニズム)は、西欧とアメリカの歴史における、顕著な出来事である。」
「実際、彼女は、その研究は、恐らく誇張と思われる運動の
『中から成長した』と言っている。」


「私の説は、内容的にはハーマンの主張と完全に一致するものであるが、調査の方向は逆になっている。」
「私の疑問はこうだ。なぜ記憶の問題は、これらハーマンの三つの事例すべてにとって、中心的問題になったのか?これら三つは、一世紀以上も前に登場した、新しい記憶の科学に深く根差した記憶の政治学を、
大いに利用したのだ
(注)ハーマンは政治学(運動)が科学を発達させたといい、ハッキングは政治学の方が科学の成果を利用して成長したと言っている。



個人記憶の政治学の深層

「ある種の知識が存在し得ることは、当然とされる。個人にまつわる事実についての主張、つまり、悪徳と美徳についてのより大きな見方と結びついた、個々の患者やセラピストについての主張が、延々論じられている。」

「これら競合する主張の根底には、記憶についての事実、つまり、その上で位置を決めるべき真偽判断が存在するという知識
(が存在する。)
・・・・
14.の”命題3”


「科学と政治学は互いに作用し合うものではあるが、政治学を可能にするのは、根底に存在する深層知識....記憶と忘却には、何らかの真実が存在するという知識なのである。」
・・・・かいつまんで言えば、個人の記憶に重要性が(暗に)認められたからこそ権力闘争が起きるのであり、それは記憶の科学誕生以降の新しい現象だということ。

14.記憶の科学

・・・・記憶に関する観念の変遷。「自我/魂」と「意識」と「記憶」。

命題

1.記憶の科学は十九世紀後半に登場した新しいものであり、それと共に、新種の真偽判断、新種の事実、新種の知の対象が現れた。
2.それまでは個人の
(社会的)アイデンティティの基準として見なされていた記憶がを解明する科学的手がかりとなったために、記憶の中にある事実を見いだすために記憶を調べることを通して、霊による魂の支配は排除された。そして、記憶についての知識が、霊の役割を果たすようになった。
3.背後には
「記憶の中には発見されねばならない事実が存在する」という観念の台頭がある。
4.その結果、これまでは
道徳と霊という観点で行われていた論争が、事実に関する知識のレベルで行われるようになった。



例証(命題1についての)

1879年7月12日、パリ<生物学協会>でのドラネ博士の発言。

「劣等民族の人々は、優等民族の人々よりも記憶がよい。」
「成人女性は、成人男性よりも記憶がよい。」
「青少年の方が、成人よりも記憶がよい。」
「知性に劣る者の方が、知性に選れた物よりも記憶がい。」
「地方人の方が、パリ市民よりも記憶がよい。」

・・・・記憶は劣等性を客観的に示すとされていた。

”記憶術”

「プラトンから(中世最盛期を経て近世)啓蒙思想に至るまで、記憶術以上に熱心に研究され、尊重されたものは他にない。」
「後世、本は最後の拠り所とすべき客観的権威になったが、当時はそうではなく、記憶術の添え物にすぎなかった。」

(特徴)
・記憶術は、騎士道と同じく、少数の人のためのもので、(雄弁家や学者などの)最高位の職業についた人だけが利用するものだった。
・記憶術は“技芸“である。つまり、記憶の方法を知ることであって、記憶が何かを知ることではない。
・記憶術は外向的なものだった。記憶術の要点は、望みの事実、物事、文章を瞬時に想記することを実現するものであり、自分自身の経験についてのものではない。


”記憶の科学”の誕生と多(二)重人格 ?リボの研究(主に命題2,4について)

[前提]

『最初に、”自我”を、意識状態から区別される実体と見なす概念を捨てることにしよう。(中略)私は、意識のある人を、複合物、つまり非常に複雑な状態の結果と見なすような、同時代人の意見に賛成する。』(リボ『実証心理学論文』1881年)


「”自我”は、自分自身に対して現れるものであるため、その瞬間の意識状態の集合になっている。いわば、その瞬間における視野のようなものなのかもしれない。」(ハッキング)
『それぞれの瞬間、絶えず更新され続ける現在においてのこの”自我”は、おおむね記憶によって育てられる。』(リボ)
『要するに、”自我”は二通りに考えることができる。実際の形態から考えると、それは意識の状態の総和である。他方、過去との連続性の点から考えると、それは記憶によって形成されるものである。』


[本論]

「リボが取った戦略は、という宗教的・哲学的観念を攻撃するのではなく、代用品を提供するというものだった。」
「単一的な”自我”を研究する代わりに、記憶を研究すべきなのだ、と。」


「”ニ分化”の症例を示すフェリーダとそれに続く者たちは、人間がただ一つの、超越的で、形而上的もしくは霊的な、自己や自我によって構成されているのではないということを示すのに、申し分のないもののように思えた。」
「これらの人々は、二つの人格を持ち、健忘による欠損部分を別にすれば、それぞれの人格が、連続した正常な記憶の鎖によって結びつけられている。」
注・つまり彼らの”正常”も”異常”も、要するに記憶の問題である。


・・・・命題3については次章で。

「現代の感受性の一面が、信じられないようなことの中で目をくらませている。すなわち、忘れ去られていたことこそ、われわれの性格や人格や魂を形成しているものだ、という観念である。」

「真理への意志」(補)

あなたはフロイト派?それともジャネ派?


僕自身は明らかにフロイト派ですね。あくなき<真理への意志>の持ち主。当面の現実との適合性や、直接的な実用性への関心はあまりない。適宜、という感じ。委細面談応相談。ちなみに僕の普段の用語法としては、<知への愛>と言った方がしっくり来ます。

たださすがに19世紀の啓蒙知識人フロイトとではそもそもの<真理>という概念・感覚の保持の仕方が違うので、結果的な作業や見かけの印象は結構違うと思いますが。
具体的に言うとフロイトがやっているような『特定化』というようなアプローチはとらない、そういうアプローチで真理に至れるとは思っていない。むしろ間違いの元だと思っている。便宜的な特定化は勿論しますが、それはいつでも迷いなく叩き壊す/捨て去る準備前提。
・・・・「考える」というのは無限に続く自己否定の過程です。一日200回くらいは死んで、そのたびまた甦りましょう。(笑)

それとフロイトが<真理への意志>と言う場合(言っているのはイアン・ハッキングですが)、それでもって何かを把握して他人にアピールしたり「人類」や「科学」に貢献したりする、そのことが大きな目的として中心にあるというニュアンスが感じられますが、<知への愛>というギリシャ的な用語法(フィロ=知、ソフィア=愛、つまりは”哲学”)で僕が意味しているのはもっと自己目的的な感覚ですね。
知/認識自体に価値があり、目的性があり、どうもその為に人間/人類は存在しているようにすら思える時もある、というような。

まああんまり説明する気はないですが、何らかそういうものを持っていない人とは僕は友達になれないようです。男でも女でも。


ちなみにフロイトの態度というのは、パッと見グロテスクで狂信的に見えるかもしれませんが、実は現代の「知」の感覚の基本はむしろジャネのよりこっちだみたいなところもあると思います。つまり(精神)医療の現場で言えば、例の『インフォームド・コンテント』というやつです。とにかく「本当のこと」を、「一人一人が」知るべきであるという。
実際にこの概念が日本で広がり始めた当時、精神鑑定の第一人者的存在として有名だった筑波の小田晋などは「騙す事も含めて治療だ」と反発したりしていた記憶があります。ジャネ的?いやむしろ伝統的。
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