多重人格ノート

多重人格(解離性同一性障害)に関する読書録

18.虚偽意識(1)

虚偽意識と虚偽記憶

虚偽意識という言葉で私が表そうとしているのは、ごく普通のことだ。つまり自分の性格と過去について、全くの虚偽の信念を形成した人々の状態のことである。


虚偽記憶とは、虚偽意識のごく一部にすぎない。「虚偽記憶症候群」[補1]は普通、ある人の過去において、絶対に起こらなかった出来事の記憶のパターンのことをさすためである。
出来事の思い出し方が不正確だ(ほとんどの出来事の記憶はそうだが)ということではない。むしろ、その出来事らしきものが、起きていなかったということなのだ。



虚偽記憶の種類

実際のところ、その(↑)症候群は、矛盾記憶症候群と呼んだ方がふさわしい。なぜなら、その見せかけの記憶は、単に虚偽であるだけでなく、あらゆる現実と相反するからである。(中略)これは、<虚偽記憶症候群財団>[補1]が宣伝している類の「記憶」である。


単純虚偽記憶というのは、今述べた矛盾記憶の例とほぼ同じ内容で言えば、そのおじが、記憶の中で、本当の加害者である父親を隠蔽するためのものになっているというものである。このため、その記憶はあらゆる現実と矛盾するわけではないが、過去は根本的に作り直されている。


関連するもう一つの記憶の欠陥は、不当忘却とでも呼ぶべきものである。
これは人の性格または本性にとって不可欠な中心事項を、その人の過去から抑制することである。
私が述べているのは(自分による)(無意識の)抑圧ではなく、(誰かまたは何かによる)(故意の)抑制である。


”欺瞞記憶”

矛盾記憶、単純虚偽記憶、不当忘却(中略)とその他の可能性を合わせて、欺瞞記憶という見出しの下にまとめてみよう。
私がこうした複合語を次々造語しているのは、厳密に言えば、我々が関心を持つのは記憶ではなくて、見せかけの記憶や記憶の不在であるということを示すためである。


欺瞞記憶の中に、私は、見せかけの記憶や、記憶の不在、過去についての明確な事実の不在(≒虚偽記憶)を含めることにする。



虚偽意識と欺瞞記憶

記憶政治学[補2]がおおむね成功したために、われわれは自分自身を、自分の性格を、自分の魂を、過去によって形成されたものと考えるようになった。


このため、現代において、虚偽意識はしばしば欺瞞記憶を含むことになる。

虚偽意識が成立するためには、われわれが何者であるかということに対するわれわれの認識の一部として、欺瞞記憶が使われているに違いない。


・・・・どういうことかと言うと、「自分」=「自分の過去」(の蓄積)という認識が自明視されるようになった現代においては、(現在の)自分についての誤った”意識”は、誤った”記憶”によって形成されているはずだと、論理的にはなるということ。

しかしこうした認識、結び付けは、かつては必ずしも一般的ではなかった。

デルフォイの神殿に刻まれていた「汝自身を知れ!」という銘文は、記憶に言及したものではない
この言葉が要求しているのは、自分の性格を、自分の限界を、自分の必要を、自己欺瞞的な自分の性向を知れ、ということである。すなわち、われわれは自分のを知らねばならないと言っているのである。


記憶政治学が現れたことにより、ついに記憶が魂の代用品となった[補3]



・・・・総括的な内容で読解に必要な前提が多いので、次にまとめて(補)をつけます。

17.過去の不確定性(4) 「記憶」と「物語」(後)

物語と原因

記憶は物語そのものではないが、物語として表現されることにより特定の機能を持つ。

物語は原因を要求する。(中略)おとぎ話はおとぎ話的な因果関係を創造する。


因果論の鎖が緊密なものになればなるほど????すなわち、病因が特定化されればされるほど????物語はそれだけ見事なものになるのである。


多重人格は、取り戻された記憶に対して、最も利用しやすい物語の枠組みを提供するのである。


人が自分の過去の致命的な部分をうまく想起するのは、人がそれを首尾一貫した物語に形作る技術を獲得したときであるというライルの主張に、同意する。それこそまさに、多重人格の因果論的知識によって提供されるものである



まとめ:暗示と多重人格

暗示と医原性に多重人格の起源を求めるモデルが、多重人格について懐疑的な者から、次々に出される。
しかし、多重人格の擁護者たちは、自信たっぷりにそうしたモデルを否定する。


私も、そうしたモデルは、貧弱で皮相的なものだと思う。(しかし)


(「物語としての記憶」に理論的免疫のある)
精神分析と密接な関係を持つ研究者たちを別にすれば、取り戻された記憶に取り組む臨床家たちは、多重人格の兆候をあまりにも素直に受け入れてしまう。


つまり両者に問題がある。

多重人格に肯定的な臨床家による、患者への「暗示」が存在するように見えるからといって、多重人格が虚偽だor本来的に医原性だということにはならない。記憶はそもそもが物語的に編集されることによって確定・想起されるものなのであって、”多重人格”という「物語」に沿っている構造が見えるからといって、その記憶が特別に作り物なわけではない。

一方でいったん”多重人格”という物語が、ある時代ある文化の医者と患者たちによって共有されると、患者の記憶(の想起)がその物語に効率的に沿う形でなされる傾向があるのは確かである。
従って、そうした患者たちの記憶や症状が、よく知られた”多重人格”の物語に符合的であるからといって、一足飛びに診断を下すことは控えなければならない。

まとめて言うと、過去においても現在においても、何らか”多重人格”的症状・現象は実在したであろうが、今日の『多重人格』が今日のようであるのは、今日流布している”多重人格”という「物語」の影響によるところが大きい。

17.過去の不確定性(3) 「記憶」と「物語」(前)

「記憶」と「物語」

思い出すという行動にもっとも似ているのは、物語を語るという行動である。記憶を表す隠喩は、物語である。


われわれは自分の魂を、自分の人生をつくりあげることによって構成する。
すなわち、過去についての物語を組み立てることによって、われわれが記憶と呼ぶものによって、われわれは魂を構成するのである。


記憶と光景

行為とは、ある記述の下の行為であると私は主張したが、私は、人間の様態を絶えず言葉で表現することが可能かどうかに疑念を持っている


想起が得意であるというとは、提示が得意であると言うことだ・・・・・・それは物語の技術なのである・・・・・・すると、思い出すことは、信頼のおける言葉による語りという形態を取り得る。」(ギルバート・ライル)
ライルが述べているのは、われわれが思い出したり、想起したり、追想するやり方の”ひとつ”は、物語によるものだ、ということに他ならない。このことは、思い出すことと、物語ることが”同一である”ということにはつながらない
ライルは、エピソードを想起することについて書いていたが、レッシングと同様に、彼は光景についても述べている。


いわゆる”フラッシュバック”について ?”光景”的記憶

(”迫真”性)

それは、おそらくは何の誘因もないまま、不意に取り戻される光景またはエピソードのことである。
脳裏をよぎる程度のこともあれば、どっと感情が押し寄せる場合もあるだろう。


記憶が直接的物語となるとき、その記憶は細部や、調子、内容の点で、誤ったものとなる。
しかし、フラッシュバックと取り戻された感情は????それらは真正の再体験なのである。


そうした記憶は、(その記憶の真実性について)何らかの特権を与えられている。少なくとも、そのような示唆がなされるのである。


(実態)

しかし、実際、フラッシュバックは、それほど堅固なものではない
最近の記憶セラピーはフラッシュバックを支援することで、フラッシュバックを安定させる
これに対して、ジャネとゴダードは、時には催眠術の暗示の言葉を二、三、加えながら、そうしたフラッシュバックを弱めて、除去した



”物語”と光景(フラッシュバック)

情動や感情のフラッシュバックは容赦なく真実を指し示しているという観念の背後にある、まったく別の要素について主張しておきたい。記憶を物語とする観念が一般に浸透していたということが、それに関係する。


論理的誤謬は、思い出すことと物語ることを同一視することから始まると言えよう。そのことが、フラッシュバックを、他の記憶とはまったく性質が異なるものに変えてしまう。


・・・・つまり、「物語としての記憶」(記憶が物語である)という側面を意識し過ぎる、固定的に考え過ぎるから、物語的でない記憶=フラッシュバックが特別に見え、特別な真実性を持つものと感じられてしまうということ。


文法の中で記号化される、思い出すという行動について我々が持つ共通の概念は、さまざまな光景を思い出すことだという点を、言っておきたい。
多くの場合、これは物語によって提示される光景を思い出すことなのだが、やはりそれは、様々な光景やエピソードについての記憶であることに変わりはない


もし回想(含むフラッシュバック)が、光景やエピソードを思い浮かべる(そして、それらを時折、記述したり、物語として語ったりする)ことにたとえられるとすれば、その回想は、その他の思い出す行動と、本質的に異なるものではない。

17.過去の不確定性(2) 「出来事」と「記憶」

「出来事」と「記憶」

現在、ほとんどの人々は、記憶それ自体は、作動すると忠実な記録を残すビデオカメラとは違うという、ごく当たり前の考え方を受け入れている。

われわれは、経験した一連の出来事を、(中略)色々な要素を再配置し、修正して、それらを思い出す際に意味のあるものへと作り変えたり、時には、謎めいていて、矛盾すら生み出してしまうような構造しかもたないものへと作り変えるのである


活動そのものは記録されるが、<ある記述の下の行為>は記録されないのだ。


それが心象であれ、画面上のビデオ映像であれ、イメージというものは、「この二人の男は何をしているのか?」という質問に対する、十分な答えを用意するものではないのだ。


われわれが心理学的に興味を持つような思い出された過去とは、あいさつとか、取り引きの合意といったような(注・上”二人の男”)、まさに人間の行為の世界なのである。



(参考)”トラウマ”の実体 ?「意図」下の出来事と非個人的な出来事

現在、恐ろしい事故の犠牲者と時々面接するという、研究のようなものが行われている。
(中略)
トラウマの専門家はこうした出来事に強い関心を持って、犠牲者たちの記憶を(心的外傷後ストレスの症状と共に)何度も研究している。この分野の先駆者ルノア・テアは、(中略)彼女が単事象トラウマと名付けたものの犠牲者は、(例えば幼児虐待のような繰り返されたトラウマの犠牲者とは違い)何が起きたかについて明晰な記憶を保持していると、彼女は主張している。


しかし、私は、こうした事件と取り戻された記憶の間の、もう一つの相違点を指摘しておきたい。トラウマの本質的特徴は、人間の行為ではなかった。トラウマとなる出来事は、出来事そのものであり、意図や記述の下での行為は起こらないのである。


従って、わたしは、人間の行為によって引き起こされたトラウマに、個人の行動とは無関係な状況によって引き起こされたトラウマの結果を適用することに対しては、強い警告を発したい。



過去の”改訂”

新しい記述の下における古い行為は、記憶の中で再体験されるものなのかもしれない。
そして、もしこれらが純粋に新しい記述、すなわち、そのエピソード(記憶)を覚えたときには利用できなかったか、または存在しなかったような記述であるならば、ある特定の意味で以前には存在しなかった何事かが、現在、記憶の中で経験されていることになる。


私が言いたいのは、行なわれたことに対してわれわれの意見が変わるということだけではなく、ある種の論理的な意味合いにおいて、行なわれたこと自体が修正されるということなのだ。
われわれが、自らの理解と感受性を変えるにつれて、過去は、ある意味において、それが実際に行なわれたときには存在しなかった意図的な行為によって満たされていくのである。

17.過去の不確定性(1) 「行為」と「記述」

(テーマ)

ほとんど文法に近いものを哲学的に分析することは、記憶と多重人格の問題にとって手助けになるかもしれない。


私が述べたいのは、過去の人間の行為の不確定性である。
この場合、不確定なのは、われわれの行為に関する何事かであって、その行為に対するわれわれの記憶ではない。



「行為」と「記述」

意図的な行為とは、「ある記述の下」でなされる行為である。


「記述」・・・・物理的動作そのものとは別の、(行為の)描写や意味付け。例えば『殺す』という概念があるから『殺人』が出来る。そして『殺意』も持つことが出来る。


新しい記述が利用できるようになり、それが広まったとき、または、それについて発言したり、考えたりしてもかまわないような事柄になるとき、わざわざ選んで行えるような新しい物事が生まれるのである。


多重人格は、不幸な個人になるための新しい方法を供給した。


以下、実例。




「人格」の「交代」

新しい術語が、日常英語の一部になったとまではいかないにせよ、多重人格に関心を持つ人にとってなじみ深いものになった。
「交代(スイッチ)」「交代人格」「人格断片」「出てくる」「別の場所へ行く」、さらには一人称複数の「われわれ」という使い方もそうである。百年前には、”第二状態”など、もっとわずかな表現しかなかった。


(そうした)新しい記述のための語彙が、存在と行為のための新しい選択肢を供給したのである。
気分の揺れの代わりに、もっと特定性の高い行動、例えば迫害者の交代人格に交代するという行動を、個人が取れるようになった。


私は、これらの言葉が利用できるようになる前には、二重人格者は交代できなかったとか、交代人格が出てくることができなかったなどと、言っているわけではない。
メアリー・レイノルズは交代した。彼女の快活な交代人格が出てきた。(中略)
しかし、一八一六年の時点で、その快活な交代人格が、意図的に出てくることができたか、つまり、それが出てくることを選べたかについては、はっきりしない。


多重人格に関する新しい言語と概念が使われるようになるまで、これは、人格断片が、意図的な行為として取り得る選択肢ではなかった。



「幼児虐待」という概念

(増加)

「幼児虐待」という記述に含まれる行為の多様性は、過去三十年の間に過激に拡大した。これまではほとんど気付かれないまま通ってきたような、いくつかのタイプの行動が、虐待とみなされるようになった。
虐待となり得るような新しい方法が発生したのだ。(中略)露骨な虐待を行えなかった大人たちは、いまや、自分でも虐待とみなし得る行為を実行できる。


ひとたび、多くの事柄が「幼児虐待」という大きな意味論上の見出しの下にまとめられて、何らかの障壁が取り払われてしまったならば、これまでは拒絶されてきた行動に対する禁止が、やや緩和されるかもしれない。
幼児虐待の増加の一因が、宣伝にあるという可能性を否定するわけにはいかない。


(再定義)

それ(父親のある行為が「虐待」かどうか)以上に難しい問題は、今日の大人の女性の事例、つまり、自分が子供だったときにはこれらの(「幼児虐待」という)記述を持っていなかったのに、大人になってから自分の過去に注目して、現在の考え方なら、そうした記述の下に置かれるエピソードを思い出しているような事例である。
(中略)
彼女が子供のときには、彼女も、彼女の周囲の大人も、何が起きていたかについて、今日の五歳児が概念化するようには、十分に概念化できなかったのである。


(再)「行為」と「記述」

すべての意図的な行為は、ある記述の下の行為だ(中略)
もし、古い時代のことで、記述が存在しなかったり、利用できなかった場合、当時、人は、その記述の下で意図的に行為をなすことはできなかったのだ。


・・・・つまり著者は(例えば『幼児虐待』のような)現代に発達した概念を、過去の行為に遡って適用することに基本的に反対である。


過去の「多重人格」者

1855年の主婦ダフネ(とその「交代人格」エスター)

もし彼女が多重人格者だったならば、多重性についてのすべての言語は、過去にさかのぼって彼女に適用可能ということになるではないか?それは違う
例えば、私が述べた(↑”「人格」の「交代」”の項)ように、一九八〇年代であれば、エスターはダフネから最高統制権を奪いながら、ある特定の機会に出てくることを選んだだろう。しかし、これは一八五五年の「エスター」にとっては、まったくできない相談だった


・・・・意図的に「交代」出来たか。


1921年のバーニス・R(とその「交代人格」ポリー)

もしバーニスが一九九一年に、多重人格および解離の専門のクリニックで治療を受けていたならば、彼女がかなりの数の交代人格を発達させていた可能性は高いと思う。(中略)しかし、歴史上の存在であるバーニスに対して、ある種の治療の下で彼女が(たぶん)発達させていたであろう人格構造を投影することは、間違いだと私は信じる。
(中略)
バーニスがセラピーを始めた一九二一年、彼女が、二つか三つ以上の交代人格を備えた人格構造を持っていたというのは、正しくない。確かなのは一九二一年九月に、彼女は少なくとも一つの交代人格、すなわちポリーを持っていたということだけである。


・・・・「多重」人格になれたか。

グルジェフと現代心理学

承前。タイトル変わってますが気にしない。
以上の基本を踏まえて両者の比較、すり合わせ。


(共通点)

1.「人格」の機能・定義

グルジェフ:社会的な要素の集積によって後天的に形成された、社会的な自己
現代心理学:社会行動・適応の為のペルソナ

・・・・多重人格という現象により単一性の幻想が破られ、「アイデンティティ」という伝統的な意味合いが後退したことによって、結果的に両者が接近。


(相違点)

1.「本質」という概念

グルジェフ:生来の部分の成長したものとしての「本質」概念を、「人格」と対置。
現代心理学:今のところそれに相当する概念はない。

・・・・「人格」概念が変容した(グルジェフ的なものに近づいた)のだから、論理的にいずれそういう概念が心理学の方でも発展してくることはあり得るかも。「単一性」幻想が覆い隠していた何か。


参考:ポスト単一「人格」時代のアイデンティティ基盤

(1)”本来の”人格

多重人格障害の治癒をめぐって、伝統的に患者/治療者双方が、まず素朴に追い求めるもの。”偽の””かりそめの”人格ではない、”本来の””オリジナルの”人格。
たいていは「ある年齢で外界から身を引いて成長を止めた(子供の)人格」というイメージをとる。

*感覚的には、同様に成長度合いの年齢的な個人差が語られるグルジェフの「本質」概念とも重なるようにも思えるが、グルジェフのそれは特に病的現象ではなく、「人格」と共にちゃんと時を刻みながらそれでも成長したりしなかったりするという質的な概念なので少し違う。何らか関係がありそうには思えるが。

(2)結果としての単一性

”オリジナル”人格の追求というものは、あたかも「神」や「真理」を追い求めるがごとき、果てのない/当てのない無限の検証作業になってしまう危険がある。
またそれは”多重人格”がすこぶる例外的で異常な現象である、あるいは本来「単一」である人格が「分裂」するという劇的なイメージで考えられていた時代の思考法とも言える。

現在は多重人格は割合ありふれた、誰にも十分に起こり得る現象であり、また「障害」という顕著な形では表われなくとも誰の中にもある程度の多重性は存在し、それが緩く統合されているのがいわゆる「正常な」状態であるというような考え方が主流になっている。

だから”本来”がどうであれ、今現在or将来的に何らかの形で一定の統一性が保たれることが目標であり、アイデンティティも言わば>既成事実の追認的に、総体として考えていくというのが1つの方向性。
極端な場合は、明らかに独立性を持った複数の人格が個人の中に並存していても、そのことをその個人が全体として受容し、また対社会的にも大きな実害ある分裂が表われなければそれで良しとすることもある。それが自分(たち)だと。


2.「人格」及び「意識」概念の厳格性

単一であれ複数であれ、基本的に一般心理学や現代の常識的人間観においては、「人格」というそれなりにまとまりを持った主体が”あり”、それが「意識」的「意志」的に活動を行なうことによって人間の生活が成り立っているという視野の元にある。
しかしグルジェフの場合はむしろ”ない”こと、人間(<私>)が外界や他者やあるいは生理的欲求などの生物的規定性に影響されるままに、「無意識」的「無意志」的に”反応”するだけの機械的存在であることを基本に、人間について語っている。

前にも書いたように(”統一性/一貫性の程度をどれくらい必要ととるか”)これはある程度は言葉遣いの問題で、最終的にどちらの記述法が説得的包括的、また実用的に事態を説明出来るかで用語の使用権は決まって来るのだと思う。いわゆる「実証性」の問題も、こうした”競争”に含み込まれるような形で存在するものなのではないか。証拠を証拠たらしめるのは枠組だ。

それはそれとしてあえて公平な(?)立場から両者のすり合わせを試みてみると、グルジェフが言っている『強い私』のようなもの
もちろん強い<私>も弱い<私>もある。しかしそれは、それら自身の意識的な強さではなく、偶発事や機械的な外的刺激によって作り出されたものに過ぎない。 
教育、模倣、読書、宗教の催眠的魅力、階級、伝統、新しいスローガンの魔力などは、非常に強い<私>を人間の個体の中に作り出し、それらは他の弱い<私>全部を支配する。
が我々の普通言う「人格」であり、現れては消える『弱い私』は無視して事態を単純化抽象化することによって、常識的な枠組は成り立っていると、そういう見方も可能かと。(実際多重人格者の「人格」を数えたりそれらと交渉する場合、そうした意図的単純化はしばしば行なわれる)
グルジェフの場合はむしろ『弱い私』の方に基準を合わせて、そうした微細なレベルも含めたある意味ではより包括的な枠組で理論を組み立てていると、そういう言い方も出来るのではないか。

まあどちらかと言えば「心」や「人間」といったロマン的概念とは一線を画しながら活動する自然科学者や、あるいはその影響下にある行動主義的or生理学主義的な心理学者と似たタイプの存在であると、そういう感じもします。・・・・ただし、そうしたタイプの学者に欠けている全体的な洞察力やイメージの喚起力をも、グルジェフは兼ね備えているように思いますが。


まだまだ書くべきことや書きたいことは沢山ある気がしますが、とりあえず今回はこれで終わり。

グルジェフの<私>と「人格」

軽く脳味噌がヘタってますが、何としても今週中にケリをつけるぞとラスト稿。

何百何千の<私> の ”<私>”
「人格」と「本質」 の ”「人格」”

はどういう関係にあるのか。現代の精神医学的現象としての「多重人格」(解離同一性障害)を考える上で、どういう意味を持ち得るのか。
実は僕も書きながら考える感じなんですが。


まずグルジェフの<私>という言葉の定義ですが、”解”編でも書いたように、抜粋4のこの箇所が非常に核心的かなと。
複数の<私>が支配権を握ろうと始終戦いを続け、また事実それは交替しているのだが、それは偶発的な外部の影響に左右されている。暖かさ、陽光、いい天気などは別の<私>のグループ、別の連想や感情、行動を呼び出すのだ。 
複数の私のこの変化をコントロール出来るものは人間の内には何もない。それは主として、人間がそれに気づいていないか、知らないからであり、人間は常にその時々に現れた<私>の中に住んでいるのだ。
時々で変わるその中身が何であれ、ともかくもその時
 <私>として働いているもの
あるいは
 <私>と名付けられているもの
が<私>である。
間違いがないと言えば間違いがないですが、無意味と言えば無意味なかなり抽象的な定義。

それに対して「人格」は、「人格」/「本質」という二項からなる概念的枠組のいち構成要素であり、「本質」が”自分のもの”つまり自分の中にある元からあるものによって成り立っているのに対して、「人格」は”自分のものでない”つまり外から来たものによって成り立っている。
「本質」が僕の言う「魂」に比べれば抽象的/機能的定義であるように、「人格」も特定の何かを指しているわけではありませんが、<私>の定義の究極的な抽象性に比べれば、それなりに具体的/構造的な定義かと。

思い切り分かり易く整理すれば
 <私>という機能の構造論が「人格」/「本質」である
あるいは
 <私>は「人格」と「本質」によって成り立っている
と言っても多分大きな間違いではないですが、なんというかグルジェフには鼻で笑われそうな(笑)猪口才な細工という気が。基本的にはそれぞれの文脈、それぞれの論の目的に応じて別々に考えるべき話だと思います。そんなに”体系”としての全体性/整合性を追求はしてない。”説法”ですからね基本的に。


一方の現代の心理学/精神医学(及び常識)の方ではどうなっているかと言うと、

まず「人格」の機能としては、
1.その人がその人であるアイデンティティの源、あるいは別名。
2.人間関係、社会生活を営むためのペルソナ(仮面)
という二面が何となく割りと緩い定義で一緒くたに考えられていた/使われていたところに、”多重人格”という衝撃的な現象が一世を風靡して、1.の用法がある種後退した。そして2.の側面を中心として、ある意味では初めて意識的で厳格な定義づけの動きが一般化した。

そして現在”多重人格”という現象を視野に入れて、あるいは多重人格を考えるor治療する目的の下にどうやら共通化している「人格」の定義としては、

特定の(時期や状況における)記憶を背景にした自己意識に基づいた、思考・感情や行動のパターンの集積

といったものがあげられるのではないかと思います。
上ではわざわざ”特定の”という断りが入っていますが、つまり記憶に十分な一貫性/統一性があれば思考・感情や行動のパターン、つまり「人格」にも一貫性/統一性がもたらされ、単一の「人格」を持った”正常な””健康な”人間とめでたく(?)認められるわけです。
言い換えれば多重人格とは記憶の病であると、そういうことになります。

ちなみにこの記憶への注目の背景には、

1.多重人格者が社会生活を送る上で最も端的に困難を訴える側面である。
2.伝統的な心理臨床において、多くの場合、記憶の分断・障壁を取り除くという方法で治癒・人格統合が達成されて来た。
3.多重人格者(等)の脳において、実際に強度のストレスによる(記憶を司る)海馬の萎縮が認められることが多い。(という最近の知見)

といった事情が存在します。

(つづく)
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